見出し画像

心頭滅却



夕食後。父に呼び出され、静かな本堂でその言葉を聞かされた。

「順子、中学を卒業したら、修行を始める準備をしてもらう。春休みからだ。」

その言葉は彼女にとって、地獄への扉が静かに開かれる音のように響いた。父の表情は厳格で、何も付け加える必要がないと言わんばかりだった。隣の母も静かに頷いている。

順子は手を膝に置き、小さく

「……はい」

とだけ答えた。それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。心の中は叫び声でいっぱいだったが、声にはならなかった。

「修行」と言えば、剃髪を意味する。髪を剃り落とし、僧侶としての姿を整えるのだ。順子の父も、かつて高校生の頃には剃髪したまま通学していたという話を聞いたことがあった。父はそのことを「誇り」と語っていたが、順子にとっては悪夢だった。

「私は女の子なのに……」

内心で何度も繰り返す。父の理屈が正しいことは頭では理解できても、気持ちは全く追いつかなかった。

部屋に戻った順子は、机に突っ伏すように座った。部屋の壁にはお気に入りのポスターが一枚貼られている。それを見るたびに、学校で普通に友達と笑い合い、映画を観たりカフェに行ったりする、そんな普通の生活が遠く感じられた。

(普通じゃなくなるんだ……私だけ。)

呟いた声が虚しく部屋に響く。布団に横になったものの、目を閉じても父の厳しい顔と言葉が浮かんでくるばかりだった。泣きたくても涙すら出ない。

次第に体が硬くなり、順子は天井を見つめながら考える。

(剃髪して、高校に通う……そんなの、絶対無理だよ……)

自分の意思が介在する余地がない未来に押しつぶされそうだった。

その日は、とうとう訪れた。

順子は台所で母から2000円を手渡された。父は朝早くから本堂で作務に入っており、送り出すのは母の役目らしい。

「床屋で丸坊主にしてもらってきなさい。得度式では剃刀を当てるだけになるから、もうその姿でないといけないのよ。」

母の声にはどこか淡々とした響きがあった。順子は小さく頷き、目を伏せた。何も言わずに玄関で靴を履き、帽子をポケットに押し込むと、トボトボと家を出た。

家にもバリカンはあった。しかし、年頃の一人娘の髪を我が手で刈ることは、父と母にも最後まで抵抗があったことは、順子はまだ知らない。


春の冷たい風が頬に当たる。町の風景は何も変わらないはずなのに、自分だけが取り残されているような気がした。
商店街にある古い床屋の看板が目に入る。あの床屋に足を踏み入れれば、もう後戻りはできない。順子はため息をつき、店のドアを押した。

「いらっしゃい。」

床屋の店主は順子の顔を見るなり、察したようだった。地元の人間なら、川中家の事情を知らない者はいない。

「座りな。」

店主は何も聞かず、静かに椅子を指さした。順子は椅子に腰掛け、小さな声で

「お願いします……」

と言った。

店主は水色の刈布を順子にかけた。大きな鋏を手に取ると、問答無用で順子の髪に刃を入れ始めた。

ばさり。

最初の一束が切り落とされる音が響く。

ばさり。ばさり。

次々に長い髪が落ちていく。順子は目を閉じたままじっとしていたが、頬を伝う髪が胸に刺さるようだった。


短くなった髪は、男の子のような長さでざっくりとととのえられていた。

「始めるよ。」
店主の声が静かに響き、バリカンのスイッチが入る音が聞こえた。

ブイイイイイ……
低い振動音が耳元を震わせ、順子の背筋が凍った。まるで自分の存在そのものを削り取られるような感覚に襲われる。

(これから……剃られるんだ……本当に。)

頭の上にバリカンの刃が触れた瞬間、心の中で悲鳴を上げそうになるのを必死で抑える。順子は目を閉じた。

ゴリゴリという音とともに、頭皮を撫でる冷たい刃が進む。まだ残っている髪が、わずかな抵抗を見せながら次々に刈られていく。刃の通った跡は、触れられるまでもなく無防備な頭皮が露わになったことを感じさせた。

(ああ、もう後戻りできない……)

順子は目を閉じ、ぎゅっと拳を握った。だが、心の奥では悲鳴が止まらない。

刈布の上に、黒く濡れた短い髪がどんどん降り積もる。先ほどまで自分の一部だったものが、今ではただの切れ端となり、床に落ちる音が小さく響く。

(どうして…どうして私なの?)

心は言葉にならない問いで埋め尽くされ、ただ頭の振動だけが現実を突きつける。

店主は機械的に、しかし手慣れた動きで順子の頭全体を刈り進めた。後頭部、側頭部、そして額の生え際に向かって容赦なく刃が通る。そのたびに、頭皮が直接空気に触れる感覚が増していく。

(恥ずかしい)

刈られていく髪が無情に消えていくたび、その思いが頭の中で何度も繰り返される。胸の奥に湧き上がる絶望が、体全体を覆い尽くそうとしていた。

バリカンが最後の音を響かせて止まり、店主が

「終わりだよ」

と言った時、順子は目を閉じて下を向いたまま動けなかった。

頭を洗われ、冷たいタオルで拭かれる間も、何かを失った感覚が頭の中にこびりついて離れない。そして、鏡を回されたとき、彼女は目を開けざるを得なかった。

鏡の中にいたのは、もう自分ではないように見える少女だった。短く刈られた頭皮はまるで異質なものに思え、顔の輪郭が露わになることで、ますます悲惨としか思えない姿になっていた。


「……ありがとうございました。」

声が震えたが、店主は気に留めなかったようだ。順子は帽子を深くかぶり、2000円を渡すと、足早に店を出た。


外に出ると、春の風が頭皮に直接触れる。帽子の中ですら、冷たい感触が肌に刺さるようだった。順子は少し足を止め、視線を地面に落とす。

(私はもう……普通の女の子じゃない。)

自分の姿を誰にも見られたくない。友達に会いたくない。家に帰っても、この姿を見られるだけで、きっと泣きたくなる。

足取りは重く、目の奥には涙が滲んでいた。それでも順子は家へと向かった。これから何が待ち受けているのか、想像するだけで怖くてたまらなかった。


玄関を開けると、父と母がすぐに順子を迎えた。母は少し微笑み、父は静かに頷く。

「よく頑張ったな、順子。」
父の声には満足感が滲んでいた。
母も
「これで準備が整ったわね」
と言いながら、優しく肩に手を置いたが、順子は何も言わなかった。帽子を脱ぐと、家の明かりが直接頭皮に当たる感覚がした。彼女は両親を一瞥し、無表情のまま
「部屋に戻るね」
と言った。
「そうしなさい。明日から忙しくなるわよ。」
母の声を背に、順子は部屋へ向かった。



扉を閉めると、順子はようやく自分に戻れるような気がした。鏡を見る勇気はなかった。カーテンを閉め、机の椅子に腰掛ける。

「もう……終わったんだ。」
つぶやいた途端、胸の奥から何かが溢れ出した。順子は顔を両手で覆い、抑えようとしても涙が止まらなかった。

「普通の高校生活がしたかっただけなのに……。」

泣きながら、これまで積み重ねてきたすべての努力が無意味に思えた。クラスメイトの笑い声、放課後の友達との会話、たまの映画館でのおしゃべり――それらはもう手の届かない過去になってしまった。

彼女は膝を抱えて布団に潜り込む。布団の中で、もう一度静かに涙を流した。



春の柔らかな日差しが本堂を照らしていた。仏前に家族と数名の親戚が集まり、厳粛な雰囲気の中、得度式が始まった。
順子は目を閉じ、住職である父が唱える経文の声を聞いていた。髪を剃られる動作が象徴的に行われ、仏門へ入る儀式は淡々と進められた。

(これで私は、もう仏門の者になった。)

順子の胸に重く響く事実だったが、その場では一切の感情を表に出すことなく、ただ儀式を全うした


春休み最後の日、順子はお堂の奥にある国宝に指定された仏像の前に座っていた。堂内はひんやりとして静かで、外の世界とは完全に切り離されているようだった。

手を合わせて目を閉じる。ふと、自分の心が妙に静かなことに気づいた。

「普通の女の子としての人生は、もう捨てるしかない。」

順子はそう自分に言い聞かせる。これからは仏門に生きる。それが自分の与えられた道なのだ、と。


胸の奥に微かな覚悟のようなものが生まれた。その感覚は、新たな自分に向き合う力の始まりかもしれない、と順子は思った。

(これが悟りの初歩の初歩なのかな……。)

心の声は誰にも届かないが、仏像の柔らかな表情がどこか答えているように見えた。

いいなと思ったら応援しよう!