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「徒然草」片手に歩く鎌倉


江ノ島と石清水八幡宮
 昭和末期に中高生だった私は、国語で古典作品を意味も分からず暗記させられていた。お陰で「徒然なるままに、ひぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」ぐらいは今も口をついて出てくる。著者の兼好は京都人だが、生涯のうち何度も、東国の武士の都、鎌倉に滞在していた。今回は特に、兼好も歩いたかもしれない鎌倉とその周辺を、「徒然草」を回想しながら歩いてみたい。
高校を卒業したばかりの私が初めて「徒然草」の普遍性を実感したのは、江の島に行ったときである。大学に入学したばかりのゴールデンウィークに、大阪在住のサイクリストだった私は、ペダルを踏み踏み東京を目指した。三重県桑名の公園、浜松郊外の砂丘、静岡市内の中央分離帯で野宿をしながら、四日目に藤沢の親戚の家に泊めてもらい、久しぶりに畳の上で眠った。そして五日目、東京にゴールする日の朝に訪れたのが藤沢市の南東、江の島だった。
海に突き出た陸続きの島(陸繋島)は、ドラマなどでもおなじみだったため、そのころの私にとって、江の島=ビーチと江島神社の弁天様だった。辻堂海岸の134号線を自転車で走るのは潮風が頬をなで、実に爽快だ。浅瀬の上の橋を渡り、参道の坂道を、自転車を押しながら歩くと、江島神社に着いた。古くから海上交通の要衝だったこの島には海の守り神である宗像三神を祀っていた。三姉妹とされるこの神々は、辺津宮(へつみや)、中津宮、奥宮に分かれて祀られているが、実は弁天様は鎌倉時代に源頼朝によって呼び寄せられた「新参者」である。「先住神」と「新参神」が溶け合うのも、日本の神社らしい。お目当ての上半身裸の真っ白な弁財天を拝んで、先を急いだ。
その後、なんとか無事に東京に着き、東京タワーに登って折り返し藤沢の叔父叔母の家に着いた。江の島に寄ったと言ったら、「展望台から富士山がよく見えたでしょう」と言われた。どうやら地元の人が江の島にいったら一番見たい景色というのが、展望台から見た湘南のビーチと、その向こうにそびえる富士山らしい。江ノ島で展望灯台行きの表示は見たが、江ノ島に行く=展望台から湘南と富士山を眺めるということを知らなかったのだ。
「徒然草」52段にも、念願の石清水八幡宮に詣でようとした仁和寺の僧侶が、ふもとの神社を八幡宮だと錯覚して満足し、帰ってから違っていたことを指摘された、というくだりを高校時代に学んでいた。「ちょっとしたことでも教えてくれる人がいたほうがよい(すこしのことにも、 先達(せんだち)はあらまほしきことなり)」と締めくくられているこの話が我が身に降りかかったのがこの江ノ島だった。

児島神社の唐獅子と出雲大神宮の狛犬
江ノ島と「徒然草」には後日譚がある。三十代のころ江島神社の上の児玉神社に行ったところ、入口の狛犬が中国の唐獅子のようで興味深かった。これはただものではない、中国と深いかかわりのあるものでは、と思ったときに思い出したのが、「徒然草」 236段である。
 高僧とその一行が丹波の出雲大神宮に詣でたときのこと、狛犬の左右が真逆になっていて、「これは…何かあるに違いない。」と、涙ながらに感動していた。ピンとこない同行者たちに「この素晴らしさが分からないなんて…」と残念がるので、同行者もさも分かったかのような顔をする。
高僧は通りがかった宮司に、「唯一無二の狛犬と拝察しますが、どんなありがたいいわれがあるのですか?」と聞くと、「いや全く、それなんですが…近所の悪ガキどもが悪さしてくれたんですよ。」締めくくりは「上人の感涙いたづら(無駄)になりにけり」。高僧だと思っていたのがただの「ピント違いの考えすぎ」。まるでコントである。しかし兼好は高僧が「裸の王様」だと知っての保身か、付和雷同していた人たちの日和見的な態度もあぶりだしている。
これが岡本太郎レベルになれば、「いや、参った。その子どもたちの自由な発想。これこそルールに縛られない芸術としての在り方だ!」と本気で言っていたかもしれない。
境内に入って神社の由緒を読んだ。「児玉」神社とは、明治期に台湾統治で「成功」をおさめたという児玉源太郎の徳を偲んで建てたもので、台湾最高峰の阿里山から取り寄せた総檜造りだという。台湾渡来の狛犬なので、私が例の高僧の二の舞を舞ったわけではないが、日本文化に精通していると思われがちな通訳案内士だけに、自らが「裸の王様」でなくて正直ホッとした。
このように、兼好は「こういうことってあるよね」とばかりに、大衆のやりがちな言動をあばき、突き放す。その「傍観者的」立ち位置に、読者はある時は裸の王様やその追従者を笑い、またある時はその刃が自分にも向けられるのに気づく。年を重ねるほどに後者のほうが多くなるようだ。今後も江ノ島を訪れる前には「徒然草」を読んでおけば、新たな発見があることだろう。

「竹の寺」報国寺
鎌倉・報国寺。この寺が日本史の教科書に出ることはおそらくないだろうし、鎌倉市民以外でこの寺を知る人も少ない。しかしミシュランガイドでは、堂々と三ツ星をとっている。何が欧米人、特にフランス人訪日客をそこまで引き付けるのか。それは境内に生い茂る、よく整備された竹林である。よってここは「報国寺」よりも「竹の寺」という名で通っているようだが、鎌倉には他にも「あじさい寺(明月院・長谷寺)」、「苔寺(妙法寺)」など、寺よりもそこに生息する植物の名のほうが、通りがいいものも少なくない。
 さらには妻のほうから夫に「三行半(みくだりはん)」を突き付けることができなかった時代に、北鎌倉の東慶寺には今でいうならDVに耐えかねたご婦人方のシェルターがあった。ここにかくまわれると三行半を公式に書くことができたということから、「縁切寺」という名のほうが通っているくらいである。
「名は体(たい)を表す」というが、「徒然草」116段に「寺の名前を考えるとき、学識を駆使してこだわりすぎた名前というのは、ユニークさも度を過ぎていたり、妙に奇をてらっていたりする。命名にあたっては素直さが一番。(寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。)」というものがある。だから「報国寺」という国家意識丸出しの名前よりも「竹の寺」のほうが素直でよいではないか。

竹林の七賢と「アメリカ版兼好」ソロー
この竹林を歩きながらも、吉田兼好を想った。兼好は本来浄土信仰の僧侶だが、「隠遁」という響きのせいか、道家思想的な様相が色濃い。彼が存命中にこの竹の寺を訪れたかいなかは定かではないが、三世紀・魏晋のころの隠遁の元祖「竹林の七賢」の故事を知っていただろう彼も、竹林を愛していたことだろう。
「竹林の七賢」は言論弾圧が横行した混乱期に、世を嘆いて竹林で琴を奏で、酒を飲みつつ、政治批判から「清談」と呼ばれる老荘思想に基づく哲学談義まで、口角泡(こうかくあわ)を飛ばし自由に語り合った。さらには半裸で過ごし、親の名を呼び捨てにし、親の喪にも服さなかったという。身なりを整え、親孝行を大切にする儒学という、当時の支配的な思潮に真っ向から逆らったのだ。それは体制がよしとする価値観を否定し、自然のもとで暮らす道を選んだ60年代アメリカのヒッピーに通ずる。社会が求める人間像よりも、自然な自分のあり方を模索したヒッピー同様、老荘を愛した隠者の兼好も、竹林を愛したはずだ。
アメリカといえば、19世紀半ばに「アメリカ版吉田兼好」がいた。「ウォルデン-森の生活」で知られるヘンリー・デイビッド・ソロー(Thoreau)である。湖畔の森に丸太小屋を建てて自給自足の生活を二年あまり続けた彼は、戦費にあてる人頭税の徴収や奴隷制度に反対し、投獄されたこともある。しかし暴力に訴えず、自分の良心が受け入れられないようなことに対し、たとえ法律であっても反対するその姿勢は、マハトマ・ガンディーやキング牧師の「非暴力不服従」という運動のやり方にも影響を与えた。

中国人にとっての「竹」
日本人は竹林に心癒やされるが、中国人は竹を曲げても決して折れず、反発してくるしたたかなものでもあると見る。そしてそれは、森と湖で思索を深めた社会運動家のソローにも相通じる。それらに比べると、生きづらい世の中には隠遁しながらも、世間づきあいをしつつ最大限人生を謳歌する日本の兼好は、抗うこと自体よりも、これ以上は譲れない「自分らしさ」を大切にすることを重視しているように思える。ある意味、周りと協調しつつもしたたかに自分の道を歩むのだ。彼が政治的なことに距離を置きがちな日本人に愛されてきたのはそのような点だったのかもしれない。
竹の寺を逍遥しながら、実は高校生の頃から「隠遁」に憧れていたことが思い出された。今思うと単に受験勉強からの逃避だったのかもしれない。その意味が、ある時にはしみじみと胸に染み、しかし大部分は「ツッコミどころ満載」であると思えるようになったのは、平均寿命の折り返し地点を過ぎ、文章を本格的に書き始めてからである。
竹林を抜けると空気が突如世俗に戻った。やはり兼好のような隠者には竹林が似合う。

金沢文庫へ
貴族が支配する京の都人であった彼は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、何度も東国の武士の町、鎌倉周辺に滞在を重ねていたという。鎌倉周辺における彼の足跡ははっきりしていないが、鎌倉の外港の武蔵国六浦(むつら)(現横浜市金沢区)周辺にいたことは分かっている。現在、このあたりは海側には「八景島シーパラダイス」、内陸側には金沢文庫がある。
「金沢文庫」駅でおりて、「神奈川県立金沢文庫」に向かって住宅街を歩く。ちなみに北条氏の一派、金沢実時(かねさわさねとき)が、京都の公家文化を、表面だけでなく頭脳や心情までも学び取るべく、坂東の武家の都、鎌倉の外港付近に図書館を設立したのがここである。よって歴史的な呼称は「かねさわ」である。今でも中世史などを研究する人には必須の専門図書館でもあり、資料館も併設されている。兼好もかつてここをおとずれたのだろうか。
あの世での安心から余生の充実へ
 住宅街の中に、突如としてまっすぐに伸びる並木道が見えてきた。その突き当たりには古びた山門が見える。そこが金沢文庫に隣接する称名寺である。「称名」とは、浄土信仰で「六字の御名(みな)」すなわち「南無阿弥陀佛」と唱えることを意味する。そしてここはこの世(此岸)から極楽浄土(彼岸)にいくことを、生きながらにして体感できる「浄土式庭園」である。池に島が二つ続いており、それらを二つの橋で結んでいる。山門付近が此岸であり、そこから一歩一歩踏みしめつつ、浄土への旅を楽しむ。そして二つ目の橋を渡りきったところが、西方極楽浄土なのだ。
 それにしても、極楽は西方にあるはずだが、ここは南から北に向かって歩くのが解せなかった。が、秋の日の夕方にここを渡って、左岸を歩きながら戻ろうとしたとき、西日が橋を照らした。そのとき欄干が金色に反射した。渡っているときには気づかなかったが、欄干の外側に金箔を施していたのだ。やはりここはこの世の極楽浄土なのだと実感した。
 法師としての兼好も浄土信仰の本場、比叡山横川(よかわ)で修行した。穢(きたな)いこの世からおさらばし、光り輝く極楽浄土で楽しく過ごすため、「南無阿弥陀仏」、すなわち阿弥陀様にすべてを捧げます、と繰り返し称名せよ、というこの思想を、彼も会得したはずである。
 しかし彼は死んでからの安寧よりも、むしろ「隠遁」、すなわちつらい現役を退き、心静かに過ごせる場所に移住して「セカンドライフ」を充実させたい、と考えた。現実逃避となじられても、彼は山中の庵(いおり)に引っ越すことで「現実の余生」の暮らし方を変えようとしたのだ。

京都と坂東のギャップ
 彼は165段で言っている。「田舎の荒くれ者たちの中にも京の雅な文化をまねる者がいる。逆にたいしたことない都人の中にも、都落ちして出世する者もいるが、『我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。(自分らしさを見失ってまで人付き合いに奔走するのは見ていられない)』」これは関東の田舎者差別ではないか、と正直思う。ただ、都人による粗暴な坂東武者に対する蔑視は兼好に限ってのことではなく、「伊勢物語」の一章「東下(あづまくだ)り」、すなわち京都=上から坂東に下る、という表現にもあるように、当時ごく一般的なものではあった。
京都の王朝文化を必死に学ぼうとするための金沢文庫に対する彼のまなざしも、「成り上がりの田舎者が勘違いして学問をやっている」という程度のことだったのかもしれない。「隣の芝生は青い」ではないが、本来の自分のあり方を捨てて、かっこよく見えるものを真似る、その「インチキさ」がいやだったのだろう。
 だったらそんな連中と付き合わずに、孤高を保てば良さそうなものだが、彼は当地にパトロンがいたらしい。また、後には足利尊氏の弟、直(ただ)義(よし)に和歌を指導したり、彼と対立する高師直(こうのもろなお)に恋文の代筆をしたりするなど、その時その時羽振りのよい武将との交流を大切にしたりする。パトロンである武家を嫌いながらも、名刹の僧侶でもない、中途半端な隠者、すなわち自営業の文学者であるがゆえに、自由な生き方を守るため、不本意ながらも「武家」と言う名のクライアントとの接触をやめなかったのだろう。「これはこれ、あれはあれ」である。

銀座の中国人観光客
 大金をはたいてくれる上客ではあっても、一部の人々の言動からか、粗野でマナーが悪いと思われていた2010年代の中国人観光客に迎合しなければ、商売にならない日本を始めとする各国のインバウンド業界の人々の心に、それは似ている。
近代日本における上質な生活文化の発信地で会った銀座が、中国人観光客のスーツケースの音がけたたましく鳴り響くようになると、銀座を贔屓(ひいき)にしてきた日本人たちはこの町を離れた。これは足利尊氏が後醍醐天皇を京都から追放し、「我が世の春」を送るとともに、雅な公家の京都が無骨な武家の配下に置かれるのを目の当たりにした京都の人々の気持ちと通じるものがあるかもしれない。兼好が京都を離れたのは、王朝文化を身に着けたと勘違いしている東国武者の、京都での振る舞いに耐えかねたからだったかもしれない。鎌倉に行けば、古の雅な京都が「けがされる」のを見ないで済むだけでなく、公家文化を伝えることで食い扶持を稼ぐことができたのだ。
閉門時間になったので、浄土式庭園から出た。並木道を戻りながら思った。この世のものではないような浄土庭園よりも、むしろ住宅街からちょっと離れたこの並木道あたりのほうが、世俗と仙境の間で右往左往しつつ自由な生活を守った兼好に似つかわしい、と。

要塞都市としての鎌倉のアイコン
鎌倉の町は東西と北を山に囲まれ、南は遠浅の海である。遠浅だと船の停泊に適さない。ただ、敵が船でこの町を襲撃しようとしても、遠浅なだけに陸地から遠いところで重い甲冑に身を固めた武士たちが水中の抵抗の中をズブズブと陸地に進んでいるうちに、鎌倉方から弓矢の雨を降らされることは火を見るよりも明らかである。三方が急峻な山、南が遠浅という難攻不落の地を選んだのは、単に風水がよいだけではなく、「常在戦場」という意識から離れない武士のリアリズムであったことだろう。
そんな「要塞都市」鎌倉観光のアイコンは、要塞の西南に位置する高徳院阿弥陀如来、すなわち高さ12mほどの鎌倉大仏だろう。日本人なら子どもでも知っている、知名度の高い大仏だが、意外にも中華系の観光客にはあまり人気がない。それもそのはず、中国にはこの五倍も大きな世界遺産「楽山大仏」があり、また台湾の宝覚寺には高さ33mの金色に輝く布袋弥勒像がある。残念ながらそれらに比べると、くすんだ青銅の鎌倉大仏は、写真を数枚撮って化粧室に行ったらすぐに出る程度の場所になっているのが現状だ。しかし「徒然草」を覚えて鎌倉を歩くと、そこに日本ならではの美を感じることができる。

鎌倉大仏の右頬
この阿弥陀如来像の右頬に注目したい。わずかにはげかけかった金箔が見えるはずだ。兼好が鎌倉を訪れた14世紀前半には、金箔に覆われていたことが推測できる。
「徒然草」7段には「野原の露が消えなかったり、火葬の煙が立ち上らずに、不老不死の薬を手に入れてしまったりしたら、逆にその瞬間瞬間の大切さ(=もののあはれ)がわからなくなってしまう。永遠に変わらないものなんて何もないんだから、人生面白いのではないか?(あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ)」とある。
さらに、有名な137段には、「満開の桜。充ち満ちた十五夜。100%のときだけがきれいなのか?雨が降っていても夜空を見上げて雨雲の向こうの月を思うのも想像力をかき立ててくれて、いいではないか。五分咲きは五分咲きで、数日後を想像できるし、葉桜でもつい数日前の姿が想像できる。そんな庭だってなんともいえないよさがあるではないか?(花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。)」
これらの文を感じてから、再び大仏を見てみよう。右頬にわずかに残った金箔の跡に、七百年以上の時の流れを感じることができないだろうか。台湾・台中の弥勒菩薩は確かに全身金箔である。しかし100%の金箔だけが美ではないのではないか。
もちろん、兼好の時代には、この世のものとは思えないほどピカピカにきらめく金箔に、人々は極楽浄土を感じたことだろう。しかし後にこれを見る人々は、風雪に耐えて、というよりも風雪さえも優しく抱きながら我々を見つめてくれたこの阿弥陀如来に、「永遠に続くものなど何もないこの世だからこそ、一瞬一瞬の移り変わりが楽しめる。」ということを教えられるのだろう。これを随筆という形で後生に残したのが兼好法師だったのだ。

「徒然草」の書かれた激動の時代
ところで「徒然草」を執筆した1330年前後というから、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕に失敗して隠岐に流され、翌年本土に脱出し、続いて新田義貞、足利尊氏、楠木正成らを配下において幕府を倒した激動の時代だ。これまでの体制や常識が、ガラガラと音を立てて崩れるのを目の当たりにした彼は、「金色の大仏」という絶対的存在さえも風化していくことを感じ取ったと同時に、日々変化してやまない、その変化自体を愛でるようになったのかもしれない。
同時に、明日をも知れぬ政変の渦中から距離をおく「隠遁」とは、単なる現実逃避というよりも、人を当てにせず、自己責任でマイペースに生きることを「つれづれなるままに」著した、日本初の個人主義宣言ではないかと思えてきた。この作品の個人主義的志向は、「ツーカーの仲の人と心静かに語り合い(同じ心ならむ人としめやかに物語し)」たくても、現実には難しい、という「ツイッターのぼやき」調の文章の中にも垣間見られる。
個人主義的な「徒然草」でありながらも、後世の我々の間まで共有できる美意識の真骨頂こそ、「変わらぬものなど何もないのなら、むしろその変化を愛でようではないか」という思いである。そしてそれをしみじみと感じるために必要なのが、「一を聞いて十を知る」ように、右頬に残るほんの少しの金箔からかつての金色の大仏をイメージし、時の流れを感じる想像力なのだ。

「コスプレのすゝめ」
鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かうまでの門前町、小町通りには、一年中浴衣を着た男女が見られるが、付近のレンタル浴衣ショップで借りたアジア系の観光客がほとんどだ。彼女ら、彼らは、まず「形」から、この古都を体感したいのだろう。ただ、その原色のぺらぺらした化繊の浴衣は、日本人の目から見ると正直安っぽく、また、コロナ以前から二十歳ぐらいの女性が浴衣を着ながらも黒マスク着用、というのもぎょっとする。「形から入る」ことは時に滑稽かもしれない。
ただ「徒然草」85段には「名騎手にあやかろうと思った時点で騎手のはしくれ。名宰相にあやかろうと思った時点で政治家のはしくれ。形だけでもいいからプロの真似をすれば、プロのはしくれだ。(驥(き)を学ぶは驥の類、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。)」とある。この言葉を「コスプレのすゝめ」と解釈した私は、庭師ではないが、背中に白く「庭」と染め抜いた藍染めの法被をまとい、足元は地下足袋といういで立ちで鎌倉の庭を歩く。そのほうが「盛りあがって」くるからだ。

夢窓疎石の瑞泉寺庭園
「鎌倉の庭」と聞いても、ピンとこない方も少なくないだろう。私が衝撃を受けたのは市内の東側の山中にある瑞泉寺庭園である。知名度は北鎌倉の建長寺・円覚寺の枯山水ほど有名ではないが、ここは京都の西芳寺や天龍寺、岐阜県の永保寺等を造園したカリスマ庭師、夢窓疎石が、関東に残したほぼ唯一の庭である。この庭園史上の革命児の庭は、近づくだけでわくわくする。 
駐車場から山中に分け入る。地下足袋に石段のでこぼこを感じつつ、息を切らして登ると、山門と本堂が現れる。そして裏に回ると、地層のはっきり描かれた崖に、直径数メートルの洞(ほら)が、黒くぽっかりと口を開けている。「これが…庭か?」初めて見たときにはこのアヴァンギャルドさに衝撃を受けるとともに戸惑った。庭というと、池があり、木々があり、岩があるのが相場だが、ここではそんなものよりもまずブラックホールのようにぽかんと口を開けたこの洞しか目に入らない。

老荘思想と兼好 
その後、にわか庭師の格好で何度訪れても、やはりこの洞は見慣れない。かつて夢窓疎石の時代の鎌倉においては、武士が亡くなったら遺骨を洞に収めたという。いわばこの洞は、あの世とこの世の境を意味するのだろう。そしてここに来るたびに、私は「老子」の第六章を思い出す。
「女体の出入口は、天でも地でも、何であろうと絶えずひょいひょい生み出し続けてやまない神秘的な根源だ。(谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。)」
一見現代アート的なこの庭は「玄(げん)牝(ひん)(女体の出入口)」ではないかという気がしてくる。いや、夢窓疎石当時の人々も「当代アート」としてみていたのかもしれない。実際「徒然草」13段では、「夜、一人でロウソクの光の下、白楽天の詩や老子、荘子などあったこともない人々の書を読みふけることの楽しさときたらない。」と言っている。彼がこの庭を見たかどうか、定かではないが、日夜老荘を読みふける彼のことだ。この庭、いや、この洞を見ると同じことを感じたのかもしれない。

謙遜もいいが積極性も忘れずに
それにしても、庭師でもないのに庭師のいで立ちの私は、庭園史上の革命児、夢窓疎石の庭を見るだけにとどまらない。山陰の雪舟庭園で講釈を垂れていると、管理人から本物の庭師と間違えられたことがある。「私など、庭師のはしくれにもおけません。」と、いかにも庭師であるかのような口ぶりで否定したことさえある。自らの厚顔無恥さ加減には我ながらあきれる。そもそも、私の本業は通訳案内士養成であるから、「庭師のコスプレ」は、ツアー客を喜ばせる商売道具なのだ。
一方で私の指導する通訳案内士予備軍は、総じてまじめで謙虚な人が多い。合格しても「まだ私のようなレベルで通訳案内士をするなんて」と、謙遜半分、不安半分で、現場で場数を踏まずに、教科書の暗記などに時間を費やす人も少なくない。ただ、「徒然草」150段にこうある。
「プロを目指す人の中で、『まだ下手なので、人にばれないように、こっそり練習してから披露すれば、みんなびっくりするだろう。』なんていう人に限って、プロになったためしはない。(能をつかんとする人、『よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得えて、さし出いでたらんこそ、いと心にくからめ』と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ならひ得うることなし。)」
対照的なのが中華系の無免許ガイドで、勉強しないで舌先三寸のでたらめな「知識(?)」をべらべらとまくしたてるケースもよく見る。どちらがいいか。「はじめの一歩」を踏み出す勇気さえあれば、まじめに学んでいく人のほうが大成することは言うまでもない。謙虚さだけではなく、積極性もほしいものだ。瑞泉寺庭園の洞は、このような「徒然なる」とりとめもないことから物事の根源まで、色々と思考を自由自在に遊ばせてくれる起爆剤としても面白い、現代アート的な空間である。
兼好が京都人だからといって京都のみで「徒然草」を思い出すのはもったいない。古典というものは普遍性があるから読み継がれてきたものだ。京都からするとかなり「格下」扱いだったとはいえ、この武家の都鎌倉を訪れる際もできれば「徒然草」の気の利いた一句でも覚えて訪れることをお勧めする。(了)

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