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伊勢神宮と神々ーつながりの尊さ

 伏見稲荷大社ー「こんな神社」に誰がした?
 90年代の初め頃、私は京都と大阪の間の枚方市に住んでいた。大阪府民でありながら二駅で京都府という立地のため、京都市内の京阪沿線のバイト先を転々とするついでにあちこちの名所を回ったものだ。それらの中でも最も「変わってしまった」のは深草(現「龍谷大前深草」)駅から歩いてしばらく行ったところにある伏見稲荷大社である。現在は門前に伏見稲荷駅ができ近くなったとはいえ、ここを訪れるのは現在の私にとって苦行でしかない。あまりに多くの訪日客に圧倒されるからだ。大きな鳥居や秀吉が寄進したという楼門などでお辞儀をするのはガイドに連れられてきたごく一部の人たちで、みな写真をとってはずかずかと神域を神域とも思わず入っていく。
 祭神は「稲荷」大神という名から推測できるように基本は農業神であるからか社紋は稲穂である。狛犬はないが、代わりに農民の天敵である野ネズミを食べてくれるキツネを守護神とするため、ここの「眷属(けんぞく)さん」というキツネは米蔵の鍵や稲穂を口にくわえている。などという民俗学的興味をそそる話はほぼ関心がないのか、日本人を含めみな写真撮影に没頭している。
 訪日客の流れと日本人の流れは明らかに違う。外拝殿や本殿で祈りをささげていたり、そしてその後社殿の向かって右手に行く人がいたら日本人だろう。訪日客は左手の受付で二等辺三角形のキツネ型の絵馬を購入し、楽しそうに顔を描いて奉納する。そして本殿裏手の千本鳥居に直行である。農業神ウカノミタマを中心とする五柱の神々のことなど知る由もないだろう。
 学生時代はこうではなかった。大学の留学生たちとここを訪れると、少年たちが彼らに向かって「ハロー、ハロー」「ボンジュール」「アロハ」などと声をかけてくれたのを今も覚えている。それぐらい「ガイジンさん」は珍しかった時代なのだ。
 そもそもここが訪日客に注目されたのは章子怡(チャン・ツィイー)演じる芸妓の映画の舞台となった「SAYURI」という2005年のアメリカ映画の背景としてつかわれてからだという。とはいえ、その後もしばらくは今のように訪日客でごった返してはいなかった。この作品やSNSなどに見られる鳥居の朱塗りとそれを覆う濃緑色のコントラストがトンネルのように続く空間を歩いてみるのが訪日客にとってのアトラクションなのだろうが、あまりの人の多さにげんなりするのが常であろう。少なくともみな浴衣姿、着物姿ならば違っていたのかもしれないが、これでは平日朝八時の梅田駅と遜色ないほどの人の群れだ。こんな神社にだれがしたのだ?と訪日客で食っている身でありながら思ってしまう。

「清濁併せ吞む」空間
 とはいえ実は人々がここにお礼参りとして鳥居を奉納しだしたのもそれほど古い話ではなく、19世紀初期からのこと。ここに神聖さを求めるのがそもそものお門違いなのかもしれないが、「清濁併せ吞む」空間であることを隠そうともしないのもここの特徴といえる。門前でイネの大敵であるスズメを丸焼きにして売る店が人気だったり、鳥居の奉納料金表があちこちに貼られていたり、「根上がりの松」という根が地上に盛り上がっている松の木を「値上がりの松」にかけて証券会社や株をやる人々の信仰を集めていたり、自販機の料金が上に上がれば高くなり、駅前の1.5倍になるなど、「清浄さ」とはほど遠い雰囲気だ。最初の鳥居群をくぐりぬけた所にある「おもかる石」にしても、この岩を持ち上げて軽いと思ったら願い事が早く適うなどというのもいかにも俗っぽい。初めからずっしり重いと信じていれば軽く感じるはずではないか。
 そのおもかる石を過ぎてしばらくしたあたりからがだんだん霊的な雰囲気に覆われていくのだが、訪日客の過半数は飽きたのか引きかえすようだ。さらに細くなった道をしばらく進み、三つ辻を経るころには明治時代から建てられだした個人の信者さんの神社「お塚」が現れる。お墓ぐらいの大きさのものが多いのだが、両脇にびっしりと連なるのは「神々のニュータウン」のようで圧巻だ。まさに「幽界」に来たかのような雰囲気といえよう。お塚にはお供え物を売る店が軒を連ねていたが、今は多くが訪日客用の土産物屋になっている。
 標高233mの頂上からは何も見えないが、四つ辻から時計回り、または反時計回りに回ると雑多な神々を信仰する人々の思いが伝わってきて、このごちゃごちゃ感こそ伏見稲荷大社の醍醐味といえるだろう。ちなみに杉の木が多いとはいえ、どれがご神木というわけでもなく、いわば山そのものがご神体なのだ。

國學ー日本人とは何か
 山を下りるとまた訪日客だらけとなるが、最後に本殿脇にある東丸(あずままろ)神社に寄ってみる。ここに1669年に誕生した荷田春満(かだのあずままろ)は、後に「日本人とは何か」を追求する國學の祖となり、旧居が残されている。彼の弟子が賀茂神社の賀茂真淵であり、その弟子が伊勢神宮の入口、松阪の本居宣長である。いわば國學発祥の地の一つがこの地なのだ。
 日本人とはなにかを問うたのが稲荷神社で生まれた彼だったのは非常に興味深い。というのもこの神社を支えてきた氏族は二つあり、そのうち荷田氏はウカノミタマを奉るこの地の先住氏族とされるが、もう一つの秦氏は猿田彦などを奉る渡来系のニューカマーであるからだ。國學発祥の地が、こうした先住民族と渡来人の交差する場であったことは、これから歩いていく伊勢神宮や出雲大社、諏訪大社など日本の名だたる神社にも共通することとして覚えておきたい。
 楼門に向かうと再び訪日客の山である。彼らからすると「相対的」先住民の私だが、この神社はどうしてしまったのかとあの世の荷田春満も思っているに違いない。今回はこの清濁併せもつ訪日客だらけの伏見稲荷大社を皮切りに、伊勢神宮を、そしてその他伝統ある神社を歩いていき、新たに「日本人と神社」について考えてみたい。

ないない尽くしの「神宮」三大原則
 主に皇祖天照大御神を祭る内宮と、彼女に食事を整える役目を任せられた豊受大御神を祭る外宮からなる伊勢神宮の正式名称は「神宮」である。雰囲気はあらゆる意味で伏見稲荷大社と対称的である。まず今の神宮からは俗な要素がほぼ見当たらない。誤解を恐れずいえばここは「ないない尽くし」の神社なのだ。まず入口に狛犬も伏見稲荷のようなキツネも見当たらない。次に受付ではおみくじもなければ絵馬もない。神社建築は数々あるが、どこにも注連縄が見当たらない。さらに正宮(しょうくう)すなわち本殿前にぶら下がる鈴も、賽銭箱もない。
 これらにはそれぞれ理由がある。伝説では二千年ほど前、史実に基づけばおそらく七世紀末の飛鳥時代末期にこの場に現れた神宮だが、造営当初のあり方を守り、後世の変化は受け入れないのが原則だという。よって奈良時代以降に仏教や道教の影響を受けて付けられた狛犬やおみくじ、絵馬などはないという。もう一つの原則は、特に内宮の正宮では私幣禁断」、つまり国や民族の弥栄(いやさか)を願い、感謝することはあっても個人の願い事は慎むべきとされる。よって賽銭箱もおみくじも、そして願い事をする前に揺する鈴もないのだ。三つ目の原則は伊勢の巨大な森全体が聖域であるため、聖俗の境に張る注連縄はない代わりに榊をもってその印とする
 伏見稲荷のあの赤い鳥居のトンネルはお礼参りに奉納したものだが、個人の願いを受け入れない内宮の正宮ではそれもあり得ない。その代わりとして奉納するのが数十分にわたる神楽である。

「清浄」な川と「正直」な杉
 神宮のうっそうとした杉の杜を歩くと心が落ち着き、歩いているだけでこころが清められるようだが、それはここで七百年にわたって大切にされてきた「清浄」「正直」という価値観による。これは南北朝時代の14世紀に伊勢神道を開いた外宮の神官、度会家行(わたらいいえゆき)らが説いたものである。そもそも即位の礼に必要とされる三種の神器のうち、草薙剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇室に、八咫鏡(やたのかがみ)はここの内宮でご神体となっているというが、国や皇室のあり方について「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」を著した南朝方の公卿北畠親房(きたばたけちかふさ)曰く、
「鏡は一物をたくはへず。私の心なくして、万象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと 云ことなし。其すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。」つまり鏡とは清らかなものでありのままを映すので「清浄」「正直」という価値観を示すに最適という。鏡以外にもあたりを見渡すと、この神宮の杜に真っすぐのびる杉は「正直」であり、脇を流れる五十鈴川は「清浄」そのものだと気づいた。
 そこから発展して、人間としてのあり方も朴訥でも清らかで正直さが求められる。江戸時代に土佐藩で家老にして朱子学者の野中兼山らから朱子学を学んだ禅僧、山崎闇斎(あんさい)は、神道を上下関係のはっきりした朱子学に当てはめて「垂加(すいか)神道」を広めた。そんな彼も「祈禱」と「正直」、すなわち神と出会ったときには「これは変だぞ」「こんなことってあるのか?」などと疑うのではなく、素直にありがたく拝ませていただくことを重視した。これこそ神という「上」の存在に対して、「下」にある我々のあるべき態度なのだ。

訪日客1パーセント?
 神というのかどうかはさておき、スタジオジブリのアニメには摩訶不思議な世界や存在に一瞬違和感を感じても素直に受け入れる登場人物がよく出てくる。「となりのトトロ」のメイとサツキ姉妹、「もののけ姫」のアシタカ、「千と千尋の神隠し」の千尋など、みな素直であるか、そのうち素直になる。いずれにせよあるがままの「正直さ」を重んじ、祓い清めつづけることは神宮においていかに重視されるかは、ここを訪れた人なら感じられるであろう。
 しかしこうした写真に映らない価値観はなかなか人をひきつけないのだろうか、訪日客は1%にすぎない。日本一有名な、いや別格の神社でありながら、99パーセントは日本人というのも、正直、清浄という価値を分かち合える民族が少ないからということなのだろうか。
 なお、内宮と外宮は約5㎞離れているが、「外宮先祭」、すなわち外宮から神事を行うルールがあるため、参拝客もまず「地の神」外宮を拝してから「天の神」内宮の気を受けるという。とはいえ両方参拝する人は全体の半数ほどらしく、内宮参拝者数はいつも外宮参拝者数の二倍ほどいる。駅近に位置しているのは外宮であるにもかかわらずである。
 ここでは伝統にしたがい、外宮から参拝しようと思う。ただその前に、同じように一つの神社であっても二ヵ所どころか四ヵ所に分かれている信州の諏訪大社を訪れてみたい。

出雲弁が聞こえてきそうな諏訪大社
 信州で、というよりも「中部地方」で私にとって最も気になる場所は諏訪だった。それはやはり子どものころから聞かされた出雲神話の中にでてくる諏訪大社の存在感からだ。高天原の天照大神から国譲りを申し渡された大国主命に代わって、相撲で高天原の猛者タケミカヅチに立ち向かった出雲のタケミナカタが、この地から出ないことを条件に降伏し、この国の支配権は出雲から高天原=ヤマトに移ったという話を、出雲にいた少年時代に何度か聞かされた。実は六年生の時に習った歴史の手ほどきが出雲神話だったことは今なお覚えている。
 しかし諏訪大社は諏訪湖南部の上社が本宮・前宮に分かれ、北部の下社も秋宮・春宮に分かれており、合計二社四宮からなる。伊勢神宮のようにどこから詣でるというルールはないが、四社まいりが大社のほうからも勧められている。いずれもタケミナカタとその妻、兄のコトシロヌシをはじめとする出雲系の神々が祭神としているため、まるで東日本に居ながら出雲弁が聞こえてきそうな雰囲気である

ヘブライ語が聞こえてきそうな諏訪大社
 しかしここで気になる「俗説」がある。この地の先住民族がユダヤ人だったというのだ。例えば七年に一度行われる御柱祭の主役「ハシラ」も古代ヘブライ語の神に由来するとかいうダジャレのようなものや、代々上社のトップを務めてきたモリヤ家の家紋は行書風の「十(字架)」の形であることなどはまぐれとしても、厳冬期に諏訪湖の結氷したところに亀裂が入って盛り上がる様子を神の通る道として行う「御神渡り」という神事は、旧約聖書にあるイエスが湖上を歩くという奇跡を起こしたことにちなむという俗説には眉につけたつばが若干乾きそうにならないわけでもない。
 ただ大社側の公式な見解ではないが、例えば上社本宮のご神体は、そこから目視はできないとはいえ、背後にある守屋山であるらしい。この「モリヤ」というのは旧約聖書において創造主ヤハウェが降臨するイェルサレムの丘と同じ地名であるという。「モリヤ」といえば本宮の近くには「神長官守矢(じんちょうかんもりや)史料館」というモリヤ氏族の資料館があるというので訪れた。地元出身の建築家藤森照信氏の設計で、八ヶ岳の岩を使った石屋根と正面の天に突き出す四本の柱がユニークである。
 一歩中に入ると驚かされた。シカ、そしてイノシシの頭部のはく製がずらりと壁に掛けられてこちらをにらんでおり、ウサギが竹串のようなものに体を貫かれて神に捧げられているではないか。これが四月十五日に行われていた「御頭(おとう)祭」の復元資料である。とっさに感じた。これは「我々」の文化ではないと。神になにかを捧げるにしても魚介類ぐらいであろう。まるで諏訪の地で古代ヘブライ語が響き渡っているような、猛烈な違和感が感じられてきた。

「御頭祭」と旧約聖書
 「旧約聖書」にアブラハムの忠誠心をヤハウェが試すために最愛の息子イサクをモリヤの丘で人身御供として差し出すよう言いつけるくだりがある。丘の上で実の父から目隠しをされてナイフを当てられ神に捧げられようとする息子イサク。いざ胸にナイフを突き立てようとするその瞬間、アブラハムの忠誠心を見届けたヤハウェの使いが待ったをかけ、代わりにその場にいたヤギを黒焦げになるまで焼きつくして神にささげたという。
 そもそもこの話を初めて読んだとき、人の忠誠心を試す神のあり方に呆れたものだ。八百万の神々まします出雲で生まれ育った私には、ユダヤ、キリスト、イスラム教という一神教に共通するこの神の厳しさについていけなかったのだろう。その時の強烈な違和感を、神に捧げられた動物の頭たちを見ていて思い出したのだ。
 ところで四月十五日に行われる御頭祭では、かつて一人の神官が少年を刀で斬りつけて神に捧げようとすると、別の神官がそれを止めて動物を差し出す演技をしていたと伝わっている。このような伝説を耳にすると、やはり諏訪大社のルーツがユダヤではないかと思えてくる。
 それだけではない。「ミシャグチ」と呼ばれる謎の神を降臨させることができるのはモリヤ一族だけなのだが、「ミ・イシャク・チ」と分解すると「御イシャク路(道)」、すなわち「イサク様の道」となるというダジャレのような解釈があるのも眉につばをつけながらも信じかけている自分がいる。ちなみに古代日本語の「チ」というのにはほとばしるエネルギーとか、神の通る道とかを意味するらしい。
 ちなみに漢字表記はいろいろあるもののミシャグチ信仰は甲信および東海に集中しており、日本海側にはないという。ユダヤ民族かどうかはともかく黒潮に乗って東海地方に上陸し、信州にまで足を延ばして根を下ろしたのだろうか。ただユダヤ民族といえば、伏見稲荷大社の渡来系氏族である秦氏まで、「ユダヤの失われた十支族」が大陸経由で山城国に定住したともいわれるのでなんとも謎だ。眉唾ではあるが気にならないといえば嘘になる。

ユダヤも出雲も「マレビト」
 なお、モリヤ氏族の古文書によると、出雲勢力に対して抵抗したのがモリヤ氏族という。私は高天原に追い詰められた出雲族だけに注目していたが、そこに先住民がいたということに気が付かなかった。ここで気になってくるのが、仮にまず東海から諏訪に渡来系氏族が定住してきて、後に日本海側から出雲系氏族が定住したとしたとするなら、それ以前の諏訪の先住民は何者なのだろうかという点である。
 本宮前の諏訪市博物館の展示ではやけに縄文にこだわる。「精霊の誕生 むかし、この世界にはどんなところにも何かがやどっていたという。水、風、陽差し、森や大地の上…生活のすべてが自然に包まれた世界で人々は粘土を焼いた器を作り始めた。」極めて詩的であり、宮崎駿的なパネルの文字がおどる。これは言い換えると縄文人となるだろうが、御頭祭、御神渡、御柱祭など、何かにつけて神々を祭る諏訪の人々のありかたこそ、この国の神との付き合い方である。つまり神とはしばしば自分たちのもとに現れる存在であり、それを丁重にもてなし、見送ることを「祭り」とよんだのではなかろうか。
 民俗学者であり歌人でもあり國學者でもあった折口信夫に言わせれば、たたら製鉄をこの地にもたらした出雲族も、ユダヤかなにかはともかく養蚕などの先進技術をもたらした遠い国の氏族も、諏訪の人々にとってはまれにやってくる「マレビト」であったに違いない。そしてマレビトであるからこそ丁重に接待するために酒と歌とおどりを必要としたのだろう。これが祭であり、神々との付き合い方なのだ。

「地理とは天地のメカニズム」
 諏訪を去る前に諏訪盆地全体が見渡せるという茅野市の杖突(つえつき)峠に登った。右手には八ヶ岳の峰々が、左手には諏訪湖が見える。ここが日本で唯一、日本の二大断層ともいえる中央構造線と糸静線が交わるところだ。湖の周囲には上諏訪温泉や下諏訪温泉など、大地からの贈り物が人々を癒す。ユーラシアプレートと北米プレートがぶつかったこの地では、出雲族とユダヤ人(?)もぶつかり、それらを受け止めて今に伝えてくれたのが諏訪の人々だ、というのが実感できた。
 天を見ながら「地理とは天地のメカニズム」という言葉を思い出した。諏訪といえば各大社の四方に立つ柱だが、ハシラとは天地をむすぶ「ハシ」ではなかったか。それらは798年以来七年に一度ずつ「遷宮」という形で伝えられ続けた。ふとこの諏訪の大地にレーザービームのようなハシラが垂直に何本も立ち、天と地をつなげているような思いがわいてきた。とはいえ「遷宮」というとやはり伊勢神宮である。ここらで再び伊勢に戻って、遷宮について考えてみたい。

せんぐう館にて
 神宮外宮の参道沿いにせんぐう館という博物館がある。言わずと知れた二十年に一度の式年遷宮を紹介するミュージアムである。館内の一番の見どころはやはり一般参拝客にはほぼ拝観する機会のないご正殿の原寸大模型(東側四分の一のみ)と遷宮の神事を精巧に再現した人形の数々であろう。国民の1割以上、延べ1300万人が訪れたという第62回式年遷宮が行われた2013年には私も参拝したが、ここはそれを記念して建てられたものだ。
 神宮の式年遷宮は他の神社のものとは根本的に異なる。それは建物も調度品もすべてそっくりそのまま造り変えるという点だ。そもそも「遷宮」ということばになじみのない都会人は、もしかしたら神宮や出雲大社だけ遷宮をすると誤解しているかもしれないが、遷宮はどこの神社でもやっている。ただそれはむしろいたんだ場所の定期的なメンテナンス工事や修理を行うことであり、定期的に、ここまで徹底して行う例は日本広しと言えどもない。

なぜ二十年ごとか
 ではなぜおおむね二十年に一度なのか。基本的に神宮の場合は建物や調度品の「総入れ替え」をして新しいモノに囲まれることで心機一転、新しい力を手に入れこの国を治めるため、とか、「朔旦(さくたん)冬至」といって、太陽がなくなる冬至と、月の満ち欠けが始まる「朔旦」が同じ日になるのが19年7カ月に一度ある、とかいうが、神道や太陰太陽暦などという共通ベースがない訪日客のガイドなどをしていると、それではなかなか納得してもらえない。そこで個人的に納得のいく理由は以下の三点である。
①出産から死亡までのサイクルと皇室の安定。二十代で親となり、五十代で孫を持ち、亡くなるのが標準的とされていた過去において、神代から現代まで続いてきたこの国の「主人」が内宮の祭神天照大御神の子孫、皇室であることを一生に二、三度知らしめることで、皇室が民族のこころの求心力であり続けるため。
②伝統技術継承のサイクル。上記のサイクルを基本にして、職人は少年時代に父親の仕事を見ながら教わり、脂ののった三十代に中堅として働き、自分の子が中堅となるはずの五十代にはアドバイザーとして支えてから世を去るというライフサイクルに最適なのが二十年間隔。
③耐久限度。礎石の上に柱を置くのではなく、あえて土中に埋め込む掘っ立て柱で、屋根瓦もない檜皮葺きの木造建築の耐久限度が約二十年。
 このような理由を並べるとなんとなく納得してくるだろうが、やはりせんぐう館でも見られる714種1576点にもわたる「神宝」すなわち神々に備える調度品などを古代の技法で作り続けること、木曽の高級材の檜を一万数千本使用すること、そして2013年の遷宮では総費用が五百五十億円、2033年の予算もそれより少し多いというのは、正気の沙汰に思えないという声があがるのも、この世知辛いご時世では無理もない話だ。
 実は食糧難の戦後間もない1949年の遷宮は行われず、内宮の宇治橋のみ整え、全体の遷宮を行ったのはその四年後だ。国民が苦境に立たされていれば必ずしも二十年ごとというわけでないのだ。ただ万博や五輪と異なり、六割が自己資金、四割が寄付であるのでその点は納税者としてはほっとするかもしれない。

式年遷宮の意義は「つながり」の確認
 それではそこまでして神宮が後世にまで伝え続けたい「価値」はなんだろうか。せんぐう館から外に出て、外宮の杜を逍遥してしみじみ思いいたった。それは「つながるいのち」、「巡り巡るいのち」の尊さである。「つながるいのち」とは、例えば全くうり二つの建造物を隣に造ることに見られる。つまりそれは子が親に似ることの喜びに近い。例えば冠婚葬祭で久しぶりに親戚の子を見たときに「あらまあ!お母さん(お父さん)の若いころにそっくり!」と喜ぶ、あれである。言われる本人は全くうれしくなく、照れ笑いするしかないのだが、子が親に似るとなぜか周りが喜ぶのはそこに「いのちのつながり」を目視できるからだ。そう、二十年の風雪を経て傷んできた社殿が真新しい白木になるのは、「あらまあ!お母さんの若いころにそっくり!」という喜びなのだ。そしてできればこれがずっと続いていってほしいと願うのが人情というものだろう。
 「つながり」はそれだけではない。新しい社殿を神々のために何年もかけて造営し、調度品も備えることで、神代と今がつながり続けることができる。私が2013年に正宮を参拝した時、真新しいつるつるした白木の社殿の横に古くくすんだ社殿がまだ建っていた。赤ちゃんの脇におばあちゃんがいるかのようだ。人間が最も「新しかった」のは生まれたばかりの時であろうが、それと同時に今という瞬間がだれにとっても一番新しい瞬間でもある。生まれたばかりの赤ちゃんの新しさは「物質」としての新しさ。そして今という瞬間の新しさは「時間」としての新しさだ。こうして「新しい物質」を通して「新しいいのち」は確かに伝えられているのが分かった。その「つながり」の尊さの確認こそ、式年遷宮の大きな意義だろう。

「中国的」にも見える神宮
 外宮の杜を歩いて北に進む。うっそうとした杜の脇にはまがたま池が正宮に向かって伸びる。明らかにせんぐう館あたりとは空気が違ってきた。いくつかの鳥居をくぐるたびに何かの濃度が高まるのを感じる。
 しばらく歩くと参拝者が神々に神楽を奉納する神楽殿などが現れ、それを過ぎると小さな社殿が奥まったところにあり、手前に高さ2mほどの榊が植えられている。小さいながらも125社ある神宮の社の一つ、「四至神(みやのめぐりのかみ)」である。外宮の東西南北、四方を守る神というが、そもそも神代に四方という概念があったのか気になってくる。なんとなく古代中国の道教を導入したようにも思えてくる、などと考えながらさらに進むと、白い玉砂利を敷き詰めた正方形の空間が現れる。
 太古の杜の中に現れたその空間があまりに人工的に見える。手前には玉砂利、奥には小さな祠がぽつんとある。ふと中国にいたころ、平原の中にビルを建てるためにコンクリートで整備した「開発区」と呼ばれる区域があったことを思い出した。とはいえやはり何もない厳かな雰囲気である。そこは古伝地(こでんち)といい、前の遷宮の時に正宮が建てられていた場所だが、そのあっけらかんとしたすがすがしいばかりの広さに「無」とか「虚」とかいう漢字が頭に去来する。どうやら私は古今の中国的要素に反応してしまう癖が往々にしてあるようだ。

変わらぬことの価値「常若」
 その向こうに数メートルの高さの塀に囲まれた正宮が鎮座する。全体は見えないが、そもそも神はしげしげと見るものではなく、ありがたく感じ、敬うものであろう。二礼二拍手一礼を終えて、それでもやはり気になって全体を眺めるのだが、隣接する古伝地が「無」「虚」ならばここは「有」「実」となろう。出雲大社や厳島神社の本殿とは異なり、ここは国宝ではない。建築そのものとしての価値が高いわけではない。どんなに古くなっても二十年にならない二十一世紀建築であるため、国宝の対象にはなりようがないのだ。
 外宮が初めてできたのがおそらく七世紀の持統天皇の時代だとするなら、同時代にはすでに法隆寺金堂や五重塔は完成していた。そしてそれらは現在にも至る。建造物として千数百年の歳月を経ると文化財となりうるが、ここの場合はそうした「物質的継続」ではなく、ほぼ戦国時代を除きほぼ二十年ごとに新陳代謝を続けていく「精神的継続」が唯一無二の価値である。このいつでも若々しくあることを「常若(とこわか)」と神宮側はよぶが、これはむしろ無形文化遺産の概念に近いのかもしれない。ちなみに「文明開化」の明治時代にはこれらを石造りにする案も出たが、明治天皇が却下した。このこともこの社殿の価値が「文化財」にあるのではないことを表している。
 「変わらぬことの価値」という言葉がふと思い浮かんでは消えた。とはいえ実は今目の前にあるこの白木の建物は、1929年の遷宮時には過剰なまでに金色の装飾がなされていたという。当時のことだから「亜細亜の一等国」としての国威発揚の意が込められていたのだろう。歴史的に見るとこれは時代を反映して「すっぴん」↔「厚化粧」を不定期に繰り返してきたという。

「過去兼未来」といのちのつながり
 正宮を後にして再び古伝地を通り過ぎる。正宮に参拝する前はここは「かつての正宮の跡地」だと思っていた。しかし参拝後には「次の正宮の予定地」でもあることに気づいた。つまり今の正宮が「現在地」であれば、古伝地は「過去兼未来」なのである。それは人間でいうなら例えば父母や祖父母という「過去」から自分が生まれ、再び子や孫という「未来」につなげるということの大切さを語っているかのようだ。奥まったところにある小さな社の下には前の正宮で最も大切な骨格となる「心御柱(しんのみはしら)」があった場所である。そしてそれは次の遷宮でもそこに心御柱を建てる。これは人間でいうと「祖父母の血や骨、もしくはDNA」を父母が、そして自分が受け継ぎ、さらに子や孫に引き渡すようなものかもしれない。
 このいのちのつながりの大切さをここまで目に見える形で教えてくれる「式年遷宮」というシステムは、やはり神宮ならではである。「総入れ替え」までする形式の式年遷宮は六十年に一度の出雲大社ですらない。その正宮と同じ年に遷宮が行われる外宮唯一の神社、多賀宮に参拝してから外宮を後にし、五キロほど離れた内宮に向かうことにしようと思う。

「神宮内外格差」
 外宮から内宮に向かう際、いつも気になるのが「内外格差」である。例えば参拝客や観光客にとって「伊勢神宮」最寄りの駅はJR伊勢市駅、または近鉄利用者であれば宇治山田駅を連想するだろう。しかしそれは外宮の最寄り駅なのであり、内宮は外宮からは4㎞以上ある。さらに参拝客、観光客御用達の宿泊施設も圧倒的に外宮近くに集中する。それでいて内宮参拝者数は常に外宮参拝者数のほぼ二倍である。これを私は「神宮内外格差」と勝手に呼んでいる。
 調べてみると、近鉄で大阪と伊勢がつながったのが1931年。その時の駅名「宇治山田」というのは内宮の門前町だった宇治と外宮の門前町が存在した山田という二つのまちをあわせたものだ。外宮の門前にあっても「山田宇治」ではなく、「宇治山田」にしたのは「皇祖」天照大御神に対する遠慮であろう。そして内宮近くにも駅舎を設置する予定もあったのだが、「畏れ多い」という理由で現在なおバスで行くのが一般的だ。列車だと失礼だがバスなら畏れ多くないのか、疑問が生じてこないでもないのだがそれはひとまずおいておこう。

外宮>内宮の「お伊勢参り」
 そもそも「お伊勢参り」がブームとなった江戸時代の庶民にとって、「お伊勢さん」とは外宮>内宮であった。しかし神宮HPの「公式見解」では約二千年前に「皇祖」天照大御神の分身ともいうべき八咫鏡と天皇が同じ宮殿に住むのは畏れ多いということで、皇女倭姫を遣わし、大和から伊賀、近江、美濃を経てようやくたどり着いたのが「美(うま)し国」伊勢だった。それを受けた天照大御神はこの地を気に入り、造営されたのが内宮だという。そして外宮はその約五百年後、食事の準備をする神を必要としていた天照大御神が丹波国から呼び寄せた豊受大御神を祭ったところとのこと。ちなみに「トヨ『ウケ』」の「ウケ」とは食料を意味するが、稲荷神社の神「ウカノミタマ」の「ウカ」と同義である。
 もしこれをそのまま受け入れるとするなら、おそらくいきなり天照大御神が入植してきて、その後に豊受大御神が定住したということになる。これはつまり諏訪大社でもユダヤ系(?)渡来人のいたところに出雲系のタケミナカタがやってきたようなものかもしれない。しかし本当にそうか。諏訪大社は信濃国一宮であるが、意外にも神宮はそうではない。伊勢国一宮は鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)と都波岐(つばき)神社であり、祭神は猿田彦命であることからも、伊勢の「先住神」は猿田彦である可能性が高い。

猿田彦とは
 猿田彦命はニニギノミコトの「天孫降臨」の際に露払いをしたということで、「旅の神」ということになっている。もしかしたら彼こそ外宮の祭神ではという説もある。その根拠として主祭神が女性ならば、屋根の上に乗せるX型の装飾「千木(ちぎ)」の上部を地面に水平にするのが一般的だからだ。内宮の天照大御神は女神だからこのようになっている。一方、外宮の豊受大御神も女神なのだが、千木の上部は地面に垂直になっている。これは男神が主祭神の場合である。祭神が本当に豊受大御神なのか、あるいは別の神なのか、単なる例外なのかは定かではないが、完全無欠の無謬(むびゅう)性が求められるはずの神宮で千数百年も神々の性別を間違い続けることはあり得ない。仮に祭られている男の「先住神」を暗に奉ってのことと考えられたりはしないだろうか。
 猿田彦命に関してはもう一つ気になることがある。彼は航海の神であるとともに製鉄ともかかわりを持つという。祭りの練り歩きには天狗のような赤ら顔の面を付け先頭に立つことがあるが、赤ら顔というのはたたら製鉄で顔が焼けたためという。実は彼の本来の住処であったろう内宮脇を流れる五十鈴川では砂鉄がとれた。ヤマトの朝廷の勢力が伊勢に進出してきた理由の一つがこの製鉄と、伊勢湾の制海権を握るためだろう。製鉄と航海の神としての猿田彦は朝廷側に取り込まれると四キロ離れた宮川あたりの外宮に追いやられると同時に「露払い」という案内役を任せられたとは考えられないだろうか。

「A面」の神宮徴古館
 「内外格差」の話はまだ続くが、とりあえず外宮から東に2キロ、内宮から北に2キロ余りのところに位置する神宮徴古館・農業館・美術館を歩いてみたい。ここは神宮側からの「公式な見解」に基づく神宮の歴史資料、民俗資料、それに絵画を中心とした美術品が集まるが、神宮参拝者の数からすると見学者は微々たるものだ。しかし通訳案内士の端くれとして、また日本とはなにか探求し続ける者として見ないわけにはいかない。私がここで関心をもったのは、有名なお伊勢参りもそうだが、地味ながらも中世の外宮を中心に始まった伊勢神道だった。
 今とは反対に、明治維新を迎えるまで内宮より外宮に詣でる参拝者のほうが多かったが、その理由として挙げられるのが内宮、特に正宮では天下国家の平和や安寧を願い、感謝すべきとされていたため、願い事をかなえてほしい庶民には人気がなかったからという「庶民目線」の理由からだけではない。他にも伊勢国造の子孫を称し、代々外宮の豊受大御神の禰宜(ねぎ)を世襲してきた度会(わたらい)氏が、豊受大御神の本来の姿は天照大御神より上の世代の天之御中主(あめのみなかぬし)命だとするだけでなく、13世紀(鎌倉時代末期)には度会行忠・家行らが朱子学等の影響を受けつつ反「本地垂迹説」を提唱しつづけたということも、知識人限定ではあるが外宮のほうが求心力となったことにつながっただろう。
 なお、度会氏が仏こそ日本の神々が外国に渡って根を下ろしたという反「本地垂迹説」を生み出すこととなった背景には元寇がある。前代未聞の外国による侵略に対し、顕界(この世)では天皇をいただき、幽界(あの世)ではその先祖たる天照大御神に守られる「皇国」には「神風」が吹くという言説、いや、熱狂的な信念を流布する必要に駆られたか、または自分たち自身も信じたかったのだろう。
 「自分こそホンモノの神」と、自らの正統を信じるこの概念は、南朝後醍醐天皇の側近である北畠親房に受け継がれ、「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の「南朝こそ正統」という主張につながることになる。
 こうした「A面の歴史」が見られるのがこの徴古館の特徴である。その一方で「民衆にとってのお伊勢参り」に関してはそこからさらに南西に1キロ半ほど進んだ伊勢古市参宮街道資料館がより適している。

「B面」は伊勢古市参宮街道資料館
 神宮徴古館が権力者や知識人、神道家などにとっての「A面」の資料館とするならば、何も考えずに熱に浮かされたままここにやってきた「庶民」にとっての「お伊勢さん」を如実に語る伊勢古市参宮街道資料館は手作り感たっぷりの「B面」資料館である。そもそも内宮から外宮に向かって伸びる街道の中間に位置する古市は、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ「三大花街」の一つであり、神宮を訪れた人が参拝後に「精進落とし」として遊興にふけることができる一大歓楽街だった。18世紀末の記録によれば妓楼七十軒、芸妓千人を数え、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも弥二さん喜多さんが立ち寄ったことになっている。「伊勢参宮 大神宮へも ちょっと寄り」という川柳にもある通り、庶民にとってお伊勢さんとは古市で遊ぶための口実ですらあったと考えられる。
 草の根の有志たちが一生懸命民俗資料を集めたことが感じられるこちらの資料館は小さく、雑然としているが、お上の視点ではなく庶民の視点から見た伊勢参りがなんだったのか、実によくわかる。例えば柄杓が展示されているが、これは伊勢参りをする人々のシンボルである。江戸時代において庶民の移動は厳しく制限されていたが、湯治目的と参拝目的にはお目こぼしがあった。そこで津々浦々から伊勢を目指してやってきた。江戸時代を通し「御蔭参り」と呼ばれる参拝の大ブームが六回起こった。平均寿命が50年ほどとして、多くの人々に一生に一度の御蔭参りの機会があったのだ。例年は平均約六十万人の参拝者があったが、1830年の御蔭参りには推定五百万人弱の参拝者を記録したという。

伊勢講の「御師(おんし)」の活躍
 富士講や立山講、白山講などでは「御師(おし)」とよばれる宗教指導者兼ガイドが手引きをしたが、伊勢講においては、「御師(おんし)」と呼ばれる外宮で武士の接待をしていた人々が、江戸時代には庶民を受け入れるようになり、江戸中期にはその数六百から七百名を数えたという。中には檀家数が十万、二十万人を数える、「スーパーインフルエンサー」もいたらしい。とはいえ実は檀家もあまり知らなかったようだが彼らが神宮の関係者かというとそうではない。
 彼らは自ら地方に出向き、民衆に呼びかけ、神宮の尊さを説いては伊勢講を結成させ、団体で伊勢の自宅を宿にして受け入れ、共に参拝をし、内宮の神楽奉納は皇族以外原則禁止のため、自宅の神楽殿で神楽を奉納するように檀家に勧めた。もちろんここまできたのだからお伊勢さんの御蔭を被るべく、我も我もと奉納したことだろう。というよりもむしろ、お伊勢さんの神官だと信じて疑わない御師とともに、裃を着て神楽奉納をすることこそが庶民の伊勢参りのクライマックスだったのかもしれない。
 ちなみに「御蔭参り」は特に天変地異や政情不安の直前に起こりやすかった。世の動きをいち早く察知した神宮の御師(おんし)たちが各地で神頼みを促す「営業活動」を活発にしたからとも思える。
 伊勢滞在は六日間が平均的だったが、伊勢では御師の宿で毎日豪華な山海の珍味とともに、芸妓衆の歌や踊りを楽しむという、まさに一生に一度のイベントだったようだ。それはバブル期における海外ハネムーンのようなものかもしれない。そして最後の夜には「精進落とし」として男性客なら遊女、女性客なら歌舞伎などに興じたという。こうした宿の多くも1890年の御蔭参りも最後に減少の一途をたどり、1945年の宇治山田空襲では古市も焦土と化した。ただ江戸後期の趣を唯一残している麻吉旅館の古びた雰囲気に古き良き日の残り香が感じられる。

「理の旅」と「気の旅」
 それにしても日本の「〇〇参り」には遊興がセットになる傾向が強いのが興味深い。「聖俗の表裏一体」で「表と裏」がここまではっきりしていると、気恥ずかしさが吹っ飛んでしまいそうだ。ここで固いことを言えば、伊勢神道の教えのバックボーンとなった朱子学では「理気二元論」なるものがある。「理」とはあるべき道、「気」とは「わかっちゃいるけどやめられない」だらしなさをいう。つまり我々は「人間こうあるべき」という理想はあっても、ついついだらだらと流されてしまう。だから学問によって自らをより理想像に近づけるべき、というのが朱子学の教えである。
 ひるがえって見ると伊勢参りというのも原則「正直」「清浄」という「理」を体感するための旅である。しかし、それだけでは聖人君子でもない庶民には面白みにかける。せっかく日常生活を離れて一生に一度の旅に出たのだから、「理の旅」を成し遂げたら仕上げに「気の旅」で羽目を外したい。理と気のバランスをとること。それが古市という地区の存在意義だったのだろう。

裏帳簿と「わらじ銭」という名のクラファン
 ところで気になるのが、江戸時代の庶民に旅をする金があったのかということだ。一説によると江戸から伊勢まで歩き、六日間滞在し、また戻るのに現在の金額で約六十万円かかったという。ある程度の商人ならともかく、「宵越しの銭は持ない」弥二さんに喜多さん、八つぁん熊さんにできることなのか。
 それをサポートするのが伊勢講という互助組織だ。毎月少額の積立で一生に一度は行けるようになるようになっていたのだ。その他にも火消しなどの「有料ボランティア」をこなすことで臨時収入もあった。農民の場合は稲作畑作は年貢の対象となったが、徴税大将にならない作物もあったため税制の隙間をかいくぐって小銭をためることが出来たのだ。その意味で今と同じく専業農家よりも兼業農家のほうが普通のあり方であり、「裏帳簿」の存在が貯蓄を可能にしたのだ。 
 それでも半世紀に一度の熱狂的な御蔭参りにどうしても行きたいという場合にはどうしたか。それには「わらじ銭」という江戸時代の「クラウドファンディング」システムがあった。「お伊勢さんに参ります」と周りにいい、旅で毎日消費するわらじのための小遣いをもらうのだ。ただそれに対してはきちんと帰参報告で義理を果たすことになっており、そこで菓子や餅などの、いかにも伊勢参りをしたとわかる土産の購入が必要とされ、それにより伊勢で受けた「御蔭」を分かち合ったのだ
 それは現在の職場への土産としてハワイにいったらマカデミアナッツチョコを買ってくるようなものだろう。ただ、商人たちは土産の品よりも、旅の途中で見聞きしたことからビジネスチャンスをつかむため「土産話」のほうがありがたかったらしい。義理人情もあったろうが、いわば情報料「抜け参り」というセーフティネット

 ただ、例外がある。今では信じられないのだが、庶民が何の当てもなく「熱にうなされる」ように、勤め先から離れて文字通り着の身着のままで伊勢に向かうことがしばしばあったのだ。これを「抜け参り」という。お金も持たずに実質六十万円もの旅をどうしてできたのか。それにも独特の社会システムが完備していた。道中柄杓をもっていれば、それに施しものがもらえたのだ。さらに、無事故郷に帰れば、無断で職務放棄をしたことも原則おとがめなしだった。先ほど資料館に飾られていた柄杓について言及したが、これはへたをすれば「無銭旅行者」とされがちな彼らでも御蔭を被ることができるようにしてあげる「セーフティーネット」だったのだ。
 しかし「本当に道中の人々が食料や金銭を施してくれるのか」と思われるかもしれないが、それに対しては「代参」という信仰概念があった。これは「自分の代わりに伊勢参りをしてもらうので、代わりに施しをする」ということなのだ。江戸時代は明治時代ほど資本主義万能の時代ではなかったのはいうまでもないが、人々の信仰と「お互い様」という精神がホームレスの無銭飲食者の旅行をすら可能にしていた。こうして富裕層でないものまで、一定レベルの旅ができるような制度と風習が整ったといえよう。

世界に誇るべき成熟した「旅文化」
 世界初の団体旅行をビジネス化したのは1841年、英国のトーマス・クックだと言われる。しかしお伊勢参りはそれより二百年早く伊勢講という草の根の組織と御師という立役者たちにより徐々に完備され、信仰深い庶民が無銭旅行者すらサポートする体制を形成していたのだ。ただ富裕層のみを対象にしていたトーマス・クックに代表される欧米資本主義と比べて、お伊勢参りとそれを支えていた江戸時代の日本社会が、少なくとも旅に関しては比較的まともな社会であったかがが伺える。訪日客富裕層の財布のひもを緩めることに余念がない令和の我々に比べ、世界に誇るべき成熟した旅文化が江戸時代にあった事実はあまり知られていない
 とはいえ御蔭参りの時期には宿代やわらじの価格が高騰する「ダイナミック・プライシング」が起こったり、また御師も人々の信仰心につけこんで神宮とは直接関係がない暦やお札、熨斗鮑(のしあわび)などをいかにも霊験あらたかなものであるか吹聴して収入源につなげたか、などという21世紀の資本主義社会と同じ手口も横行していたことも追記しなければフェアではない。逆にいえば我々は数百年間やることが変わっていないのだ。 
 なお、旅人のセーフティネットともいえる「代参」を支援するシステムは、お伊勢参りだけではない。今なおそれを行っている地域として「四国八十八か所霊場」のお遍路さんを支える四国に寄り道してから、改めて内宮に参ろうと思う。

「空」と「海」を洞窟から見つめた大師様
 しばらく伊勢を離れて、巡礼という面では似て非なる四国の旅話にお付き合いいただきたい。四国も17世紀後半に八十八か所霊場が固定化し、庶民の歩き遍路が始まった。時代的に伊勢講と時を同じくする。しかしその様相に「理の旅」「気の旅」のような区別はない。お伊勢参りの享楽性に対して、四国遍路は庶民の修行に等しかった。そもそも思い思いの服装で街道を歩き、食堂で食事をとり、旅館で泊まるお伊勢参りと、白装束に「同行二人」と書きつけた笠をかぶり、金剛杖をつきながらひたすら歩く遍路では、背負うものが違う。
 それだけではない。お伊勢参りでいったいどれだけの旅人が日々、天照大御神や豊受大御神などとともに一歩一歩踏みしめることに感謝しつつ歩いただろうか。お遍路さんは「同行二人」、つまり寝ても覚めても「大師様」、すなわち弘法大師空海と二人で歩かせてもらうのだ。 
 朝廷によって最高位の神に祭り上げられた天照大御神よりもはるかに旅人のこころに生き続ける「大師様」とはどのような存在だったのだろうか。それを知るのに最適な場所は、一番札所のある阿波鳴門の霊山寺(りょうぜんじ)でも、弘法大師が誕生したという讃岐の善通寺でもなく、札所にすらなっていない土佐は室戸岬東の御厨人(みくろど)窟および隣接する神明窟ではなかろうか。
 比叡山延暦寺などのきちんとしたシステムの中で修行した同時代の高僧と、洞窟にこもって大自然の中で己を鍛え、天地と一体となった彼との間には本質的な違いがある。伝説によるとここで足を組み、座り続けていると明星が口に入ってきて悟りを開いたという。今は洞窟の目の前は道路だが、海面の高かった昔は目の前は海、その上は空、だから「空海」と自分で名づけたという。この伝説はお遍路さんならみな知っており、空と海を見続けながら、そして見守られながら次の札所を目指すのだ。遍路のもつ庶民性は、この仏教エリートであることを捨てて四国の山野を歩き続け、己に向きあった弘法大師のあり方と無関係ではないだろう。

「すっぴん」古神道と「厚化粧」密教の融合
 彼の求めた密教は、普遍的な哲学である前にこの四国の天地であり山川草木に向き合うことであった。古神道と密教は彼の中で一つになり、その後日本人全員のなかで一つになっていった。言い換えれば岩に、水に、木々に命が宿るという素朴なアニミズムに、グローバルなお墨付きをあたえたのが密教だ。山や峰に如来や菩薩を感じ、立体曼荼羅としてみるのである。また「いたいのいたいのとんでけ!」「ちちんぷいぷい」レベルの子供向けのおまじないを、護摩を焚き梵語を交えて仰々しく印を結ぶと、気休めかもしれないが病が治ることもある。つまり同じ事物のすっぴん状態が古神道、厚化粧をすれば密教、というようになってきたというべきだろうか。日本仏教の革命家の遺跡ではあるが、洞窟の外には鳥居が備え付けられているのが、この神仏習合を物語っているようだ。
 そして古神道にはない発想として、例えば山そのものが宇宙であるという宇宙論、そしてその中にある峰や巨岩のような「突起物」は金剛曼荼羅、洞窟などの「くぼみ」は胎蔵界曼荼羅の現れとするなど、具体的なものを目の前にして存在論、認識論の世界に一気に飛ぶことができるようにしたのだ。こうして森羅万象をシステマティックに並べなおすという作業が、彼が遣唐使として入唐した成果であった。この神仏習合から本地垂迹説が生まれ、それに対抗したのが渡会氏の伊勢神道だったのだ。
 思想面はともかく、お伊勢参りの人々を受け入れた伊勢や東海地方の人々がすでに失ってしまった風習や価値観を四国の人たちは今も大切にしてきている。それは「お接待」といい、お遍路さんに対してお茶の一杯、ミカンの一つでも提供し、あるいは遍路小屋を当番制で運営してお遍路さんに休んでもらったりすることである。場合によっては「善根宿(ぜんこんやど)」といって宿を提供することすらある。
 伊勢参りに来た人々に対し、受け入れ側の各地では宿代やわらじ代金を釣りあげたのは先に述べた。今風にいえば「オーバーツーリズムを逆手にとって大儲けした」伊勢商人像が思い浮かぶ。しかし四国の人々は自分たちも恵まれなくとも、より恵まれない人々を援助し続けるのだ。東海地方で柄杓一本でタダ飯タダ宿にありつけたのは江戸時代の話。地味ではあるが四国ではこれが今なお続いている。これこそユネスコ無形文化遺産に登録されるべき旅文化かもしれない。

お代を受け取らない食堂の話
 「遍路をする人と同様、お接待をする人も何かを背負っている」と言われる。お遍路さんが白装束なのは旅先で倒れたときの死に装束であり、金剛杖は墓標代わりとするためなのだ。そして「同行二人」と笠に書いてあれば、そこに弘法大師のことを思わずにいられない。旅に対する重さが伊勢参りとは根本的に異なる。それはマレビト信仰の最終型なのかもしれない。
 私がそれを実感したのは、ある年の暮れに愛媛県の大洲市を訪れた際、手のべうどんしらいしという食堂に入ったときのことだ。私たちの席に隣の席の注文した鍋焼きうどんがきた。我々も鍋焼きうどんを注文していたので、自分たちのものかと思い、食べようとしたところ、隣席の客が「自分たちのはまだか」と店員に問うた。もしかしたら食べようとしたものがこれかと思ったらその通りだったので、「手を付けていないのでお先にどうぞ」と隣席の客に言ったが、不服な様子で店を後にした。
 結局私たちがそれを食べることになったのだが、支払いの段階になって店主はこちらのミスだからお代を受け取るわけにはいかないとのこと。しばらく押し問答があったが、こちらがあきらめた。ちなみに鍋焼きうどん以外のメニューもみな無料にされた。
 後になってそのことを別の大洲の人に話すと、「それが四国のお接待文化だ」とのこと。我々は遍路客ではない。服装からしても分かったはずだ。しかしそれが「マレビト枠」の我々に対する精一杯のもてなしだったのかもしれない。そしてそうすることで、先に出ていった客に償おうと思ったのかもしれない。あるいはその客と我々の両方に弘法大師の後姿を見たのかもしれない。遍路とお接待文化を考えるうえで、私はいつもこのことを思い出すようになった。

ムスリムとお遍路さん
 ところで東京は代々木上原のモスク、東京ジャーミィで面白い話を聞いた。四国では一生に一度遍路をする風土があるが、ムスリムも一生に一度、男性は白装束でマッカのカアバ神殿に行き、アッラーに出会うとともに自分と向き合うことになっているという。これはお遍路そのものではないかと思えてきた。しかもムスリムは旅人だけでなく貧者に対しても善行を施すという。善行を積むことで天国に近づけるというのは、代参してもらうお遍路さんに感謝するというお接待とは違うが、旅人にやさしいという意味では共通する。
 目下観光庁は訪日客の富裕層にいかにお金を落としてもらうか、そしてインバウンドにより地方を再生するというただ二点しか見えていない。しかし日本にはお接待文化をもつお遍路にせよ、失われたとはいえ柄杓一本で最低限の旅はできた伊勢参りにせよ、世界に誇る旅文化があることを忘れてはいないか。
 そんなことを思い出しながら、そろそろ今一度内宮に向かいたいと思う。

おはらい町・おかげ横丁の赤福と伊勢うどん
 内宮の門前町というと昔からある石畳の美しいおはらい町であり、その中ほどに隣接するのがかつての繁栄をイメージして1993年に完成させたおかげ横丁である。それらが交差するところに伊勢土産の代表格、赤福餅の本店があり、また名物の伊勢うどんの店も建ち並び、いずれも参拝客でにぎわう。大学時代、伊勢出身の友人にこの赤福と伊勢うどんをご馳走してもらったことがあるが、その食文化の豊かさに驚いた。以来私にとって伊勢の食というと赤福と伊勢うどんとなった。
 ところでなぜ伊勢に参ったら餅とうどんが定番になったのか。赤福餅の創業は1707年、三百年以上の伝統を持つ。そもそも餅というものはめでたいときに分ちあって食するものであり、江戸時代には特に高価だった黒糖入りのあんこで、一生に一度と言われた「ハレの日」のお伊勢参りを演出した食べ物だったという。そして遠方から来た参拝客の疲れをこれでねぎらったのは想像に難くない。餅をこしあんでくるんだ今の形になったのは1911年、正憲皇太后の参拝にあわせて、それまでの黒糖から白砂糖に変えて味を良くしたことに始まるという。
 そして私が初めて食したときに驚いたのが伊勢うどんの太さと柔らかさだ。平成期に全国的市民権を勝ちとった讃岐うどんなどのようなコシは全くない。それとは対極的に直径1センチほどの超極太麺が、外も中もふっくら、もちもちとしている。他の土地では経験したことのないどろりとしたたまり醤油をかけ、ネギと、好みに合わせて生卵ぐらいしかのっていない。これも大勢の参拝客が一度に店に入った時、またせずに出すために初めからふわふわになるまでゆでてあるものをサッと湯通しして出せるようにとの気づかいらしい。ちなみにあまりの客の多さにスープを作る時間もないほどで、伊勢湾をはさんで目と鼻の先の知多半島のたまり醤油をつかうようになったとのことだ。
 とはいえ、順序としてこれらは参拝前に食べるものではないだろう。参拝のついでに名物を食するのであって、名物のついでに参拝をするのでは本末転倒だ。

内宮ー五十鈴川を渡って
 おはらい町を抜けるたところに、いよいよ外宮と俗世を分ける宇治橋が現れる。長さは約102mの木造和橋で、橋脚はケヤキである。橋の前後に鳥居がある。内側のは内宮の旧正殿の棟持柱、外側のは外宮の旧正殿の棟持柱の再利用で、さらに20年たつと県内の別の神社の鳥居になる。サステナビリティなシステムが注目されるとはいえ、別の神社で使われていた木材がここで使われることはないのが持続可能なのかは正直なところ疑問ではあるが、鳥居をくぐって橋を歩こう。清流五十鈴川の上を歩くだけで身も心も清められるようである。この地に神宮を造営することを奏上した倭姫が御裳(みも≒はかま)のすそを清めたといわれたことから 御裳濯(みもすそ)川とも呼ばれた清流である。
 橋を渡り切ってから気づいた。ここは神宮の北側である。外宮は東から入った。日本の神社の多くが南からでなければ東か西から主要な鳥居をくぐるのだが、なかなか北から入るのは珍しい。域内はうっそうとした杜であるが、こうなったのは明治時代からであり、江戸時代には橋を渡り切った一帯の「神苑」にまで神職たちの自宅だけでなく茶屋まであったというが、皇室≒天照大御神≒内宮の神聖さを高めるためにも俗なものは川の手前に移したという。
 そこからしばらく森の中を川の上流に向けて歩くと、再び川の岸辺にたどり着いた。夏でもひんやりと冷たく、まさに心の奥まで清められるようだ。脇にある見落としそうなほど小さな板塀に囲まれた瀧祭神(たきまつりのかみ)も忘れずにお参りしたい。伊勢ではこれは「おとりつぎさん」といい、正宮の天照大御神に願い事を取り次いでもらえるという「秘書」だと思われているようだが、「私幣禁断」の原則はどうなったのだろうか。
 そんなことより気になるのは中には社殿がなく、ご神体の石があるだけだということだ。磐座信仰の一種だろうかと思いながらいよいよ正宮に向かう前に、内宮のさっぱりした明るさとは色彩的に正反対にも思えるが、メカニズム的にはよく似ている厳島神社を訪れた時のことを振り返りたいと思う。

厳島ー観音様の横顔と弥山
 宮島口からフェリーに乗り、島に向かう。訪日客であふれており、みな海に浮かぶ朱塗りの大鳥居とその向こうの社殿の写真を撮っている。私はというと、その上の弥山の稜線に目をやり、手を合わせる。よく見ると仰向けになった観音様の顔に見えるからだ。その十数分間の渡海で気づいた。これは五十鈴川の橋を渡って清められるようなものなのかもしれない、と。
 ちなみに宮島は航海の神、宗像三女神を「斎(いつ)き祭る」島であることから「厳島」と呼ばれるようになったとか、あるいは三女神の長女、市杵島(いちきしま)姫命からその名をとったともいわれる。
 観音様の横顔に見えた山を「弥山」というのは、密教でいう宇宙の中心にあるという須弥山という山とみなすからである。つまり舟から見る弥山は巨大な立体曼荼羅なのだ。そしてふもとの神社に行くだけならば城郭でいうと「三の丸」だけ見て「本丸」にはいかないようなものだ。厳島の本当のありがたさを知るためには、やはり弥山を登るに限る。

門前町から厳島神社へ
 島に上陸したら、水に浮かぶように見える社殿を最初に造営した平清盛の像がお待ちかねだ。そういえば外宮では清盛が参拝した折に冠が木の枝に触れたのに怒り、片側を切り落としてしまったクスノキが残る。神宮から見れば清盛など俗人中の俗人だったに違いない。
 重伝建に指定されている門前町を歩く。おはらい町やおかげ横丁に比べると地味かもしれないが、赤福の代わりにもみじ饅頭、うどんの代わりにあなご飯とカキの店が軒を連ね、その匂いにつられてしまう。
 しばらくすると檜皮葺きの美しい五重塔が見えてくる。秀吉が戦没者慰霊のため法華経を読経すべく寄進させた千畳閣(実際は九百畳弱)の五重塔であるが、軒先が反った唐様の五重塔は他に例がないという。このように平安時代から江戸時代までの様々な様式の建造物がひしめき合っているのが厳島神社の特徴だが、本殿周辺に関しては13世紀に三度の復元工事を行った際、全て原型に忠実に行っていたらしい。それにしても神社でありながら観音様。ここもまた神仏がうまく習合した例である。
 ところで宮島は島全体が花崗岩の巨岩である。よって平地がほぼない。それが海に張り出すようにして本殿を造営し、沖合までを境内にみたてた理由だろう。神宮が森という平面に全ての社殿があるのと同様、ここもより横と前に、平面的に広がっていくように見えるが、実はその背後に大聖院という厳島神社を管理する別当寺院が山中に存在したということからみると、より立体的であるといえよう。

大聖院ーコスパ、タイパと消えずの火
 広々とした本殿を抜けると、大聖院への道を歩きたい。石仏や羅漢の石像がずらりと両脇を固める石段を登ると、多数の灯篭がぶら下がる遍照窟に達する。ここで祈れば四国八十八か所霊場を回ったのと同じ功徳が得られるというが、私はこの手の話を聞くたびに願かけしながらも「コスパ」「タイパ」に弱い庶民、そしてそれを認める寺社の人間臭さに顔がほころんでくる。
 さらに登っていくと露出した巨岩の上に木々が根を張っているのに生命力を感じる。所々に磐座があるが、それらは大日如来の依代(よりしろ)とされていたり、中には弘法大師空海の修行していたという岩屋まである。山頂付近の霊火堂には「消えずの火」と呼ばれ、弘法大師空海の時代から千二百年以上も消えることのない灯が継ぎ足され続けている。ここでは別の形の「遷宮的価値観」、つまり古代から今までをつなぎ、これからも子々孫々まで同じ形でつなぎ続けるという強い意志を感じた

ウルルVS厳島ーかたじけなさに涙こぼるる
 海抜535mの山頂には巨石がごろごろころがり、まるで天然の巨大な枯山水である。さらに展望台からは瀬戸内に浮かぶ島々の絶景が、巨大な池泉回遊式庭園のようですらある。この絶景を同時に楽しみながら思い起こしたことがある。オーストラリアを代表する世界遺産、ウルル(エアーズロック)である。高さ348メートル、周囲9.4キロのこの巨大な一枚岩は、アボリジニから神が降臨する磐座として崇拝を受けてきたが、観光地化して長く登山の対象となっていた。それが2019年からはアボリジニの伝統的価値を守るべく、登山は禁止されるようになった。
 下山は時間節約のためロープウェイを利用したこともあるが、アボリジニにとってのウルルにでも匹敵するような山に登って楽しむために、ロープウェイの柱まで聖なる山にずぼずぼと打込んでいる自分たち人間が申し訳なくなってきた。 
 西行法師は神宮に参った際に残した名歌を思い出した。
「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
 ロープウェイで下山しながら、涙まではこぼれなかったが、この山の、この岩の、この杜の神々に、西行のかたじけなさとは別の意味で申し訳なく思ったことは事実である。
 島を離れて宮島口に戻ろうとすると、やはり多くの訪日客に囲まれた。おそらく彼らのほとんどが水に浮かぶ社殿と大鳥居目当てであり、一部は弥山まで登ったであろうが、それでも弘法大師の頃から変わらぬ灯や神の岩肌にロープウェイを打ち付ける人間の無礼に対して「かたじけなさに涙こぼ」れかける者はいなかったろう。ただ、願わくば日本人にはこの思いが伝わり続けてほしいと思いつつ、島を離れた。

神宮の杜ー巡りめぐるいのちが潤う一大生命体
 神の島である厳島でも血なまぐさい戦が起こっていた。1555年、安芸の毛利元就と山口の陶晴賢が両軍合わせて数万人激突したという厳島の戦いである。その戦では社殿も辛うじて焼失を逃れた。後に血によって汚されたということで、板をすべて張り替えた上で、勝者の毛利氏が大改修をした。それが現在の社殿である。
 神宮も一時汚されたことがある。1945年7月29日の宇治山田空襲で市街地の半分以上が焼失した際、外宮正宮に焼夷弾が突き刺さったのだが、不発弾に終わったという。「神々の都」を襲ったことについて軍部は痛烈に非難すると同時に、内宮は無事で、外宮も不発弾だったのは「神畏」であるとした。ご都合主義も甚だしい。米軍は文化財保護の目的で攻撃しなかっただけなのかもしれないのだが。
 ちなみに1942年には昭和天皇が軍服姿で戦勝祈願をした。日本は「神国」であり、「神風」が吹くとされた。隊員の死が前提となる攻撃隊は「神風」特攻隊と名付けられ、kamikazeとは狂信的な人間とみなされ、世界共通語となった。ちなみに「神風の」とは「伊勢」にかかる枕詞である。
 46年11月には敗戦の報告をしに天皇は戻ってきた。その時期になると進駐軍のジープがそのまま神宮内に入ることもしばしばであった。人々は大切にしてきたものが穢されたと感じたはずだ。さらにGHQにより神宮の面積自体が大きすぎるから不要とされ、縮減されそうにすらなった。古神道において山は、杜は、神そのものである。しかし古神道と国家神道の区別がGHQにつくはずもない。神宮側はなんとか「神域」ではなく「自然保護」というコンセプトを強調して米軍を説得し、今の杜を守ったのだ。このことを知ると、今うっそうと茂る神宮の木々が、偶然の奇跡のようにも思えてきた。
 改めて伊勢の杜を歩いてみると、杜や山にしみ込んだ水が循環し、スギやヒノキのような針葉樹からシイやカシ、クスノキといった照葉樹を潤し、そしてそれらに群がる微生物や昆虫を育て、それをついばむ鳥やシカなどが現れ、巡りめぐるいのちが潤う一大生命体であり、杜そのものが小宇宙ですらあることに気づかされる。これを密教のコンセプトでいい換えれば「歩く曼荼羅」である。ここの神々はそれぞれの役職と人格のような神格をもっているとされるが、それ以前の自然のメカニズムの存在が実感できる。ただ朝廷やその時々の為政者が国を治めるにあたり、国家や民族の安寧を願う対象の役割をかぶせられてきただけのような気がしてきた。
 「初めに森羅万象ありき」。そんな言葉がふと浮かんだ。そしてそれを最も色ごく残してくれている場所のことを思った。「ヤマト」ではない。この地から遠く南に離れた沖縄の御嶽(ウタキ)であり、拝所(ウガンジュ)である。神宮の旅を締めくくる前に、沖縄を歩いたことを思い出してみたい。

名護城(なんぐすく)
 25歳の頃、沖縄はやんばるの名護に住んでいた。マンションの向かいは名護城(なんぐすく)という公園だった。城郭マニアの私は赴任の翌日、城山に登った。当時は沖縄のグスクを全く理解していなかったため、本土の「城郭」とは異なる首里城や今帰仁(なきじん)城、中城(なかぐすく)城などのような青空に曲線を描く垂直に近い石垣をイメージして登った私の期待は見事に裏切られた。数百段の石段を登ったそこには、赤瓦を漆喰で固めたコンクリートの小さな拝殿と本殿らしき社殿があるだけで堀はおろか、石垣も土塁も確認できなかった。そもそも確認しようにもジャングルのようなもので見分けがつかなかったのかもしれない。
 ただ、奥に入っていくと「何もない空間」がただそこにあった。そしてそこにてんちじうたき(天継御嶽)という神が降臨するあずまやらしきものがあるが、私にはただのコンクリート製あずまやにしか見えなかった。ただ「何もない空間」ではあるが、「何かがいる」気配も感じた。「城郭」を期待して登った名護城には裏切られたが、その後沖縄を何周かまわり、ようやく気付いた。「グスク」を「城」と表記するのは当て字であり、本質は「防塁付き聖地」とでもいうべきものであるということを。

首里城の最も大切な場所
 世界遺産琉球王国のグスク及び関連遺産群のシンボルともいえる首里城。沖縄戦で完全に破壊された本殿は平成の初めに再建され、平成が終わるや焼失した。焼失してから二ヶ月弱ほどして、焦げ臭さ残る現場を訪れた。
 まず守礼門をくぐり、しばらく進むと左手に園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門が現れる。戦災による破壊から復元されたこの門では、琉球王国時代は国王が、南部にある琉球発祥の女神、アマミキヨゆかりの地を14か所の聖地を巡礼する東御廻(あがりうまーい)の、いわば琉球版「一番札所」として、道中の安全祈願をしたり、五穀豊穣の祈願などをする場所でもあった。ただ、本土の観光客が勘違いするのは、この門に神が宿るわけではなく、足下の崖に木々が生い茂っている杜に神を感じるという点だ。
 歓会門、瑞泉門、漏刻門を通ると本土の城郭でいうなら「長屋門」と「多門櫓」が合わさったような奉神門が現れる。ただ、火災後二ヶ月もたたなかったため、朱色の漆塗だったものも部分的に大破したり真っ黒こげになって、変わり果てた姿をさらしていた。その光景は映像で見て覚悟していたが、一つ安心したことがある。門の前の石塀に囲まれた囲いの中に樹木が数本元気に残っていたのだ。首里森御嶽(すいむいうたき)という、首里城内に十か所ある霊験あらたかな杜である。
 神宮の五十鈴川沿いに建てられた、樹木を祭る瀧祭神と同じではないか。「残っていてよかった!」私はこれをみて、こころから安堵した。本殿周辺のユニークさにも城郭マニアとして楽しませてもらったが、城郭以外のもの、特に精神文化に関心を持つようになると、やはり沖縄の城郭で最も大切なのは、樹木であり、岩である。その周りに城郭が発達したのだ

女性に守られてきた杜
 そして嘘のように焼け残っている杜に足を向けた。ひっそりと涼しい。「京の内」と呼ばれるこの杜には、なにもないけどなにかがいる。そう、西行が神宮で「なにごとのおはしますかは知らねども」と詠んだあれである。杜の中に聖地につきものの手を広げたような亜熱帯植物のクバ(びろう)の木が見える。明治時代の「琉球処分」のあと、ここは日本陸軍が使用したため、沖縄戦では山ごと「鉄の暴風雨」にさらされた。戦後の米軍統治下では琉球大学のキャンパスとされ、本土復帰後は観光地と化した。
 しかしどんな時代でもこの杜は沖縄の女性たちに守られてきた。こうした拝所(うがんじょ)や御嶽は、場所によっては男子禁制で「ノロ」と呼ばれた女性のシャーマンによって守られてきたのだ。ここには鳥居も社殿もなく、ただうっそうとした杜があるだけなので残ったのかもしれない。そして重要なのは、このような場所が首里城発祥の地とされてきたという事実だ。ここにあらためて訪れ、ようやく25歳の時に名護城でみた樹木だけで何もない空間にどれだけ深い意味があったか分かった気がした。グスクとはすなわち「防塁付き聖地」と確信を持てたのはこのときだ。

琉球石灰岩と御嶽
 その後、琉球のグスクではどこでも御嶽や拝所(うがんじょ)を見ることになった。特に北部の今帰仁城などは、カナヒヤブの御嶽があったところに要塞化したものだ。また、中部の中城(なかぐすく)城は、沖縄本島の土地の約三割を占めるという琉球石灰岩の岩盤の上に、それを切り取って石塁にして固めたところだが、巨大な岩盤の上に聖なる島、久高島の遥拝所や首里の遥拝所、雨乞いの拝所など、合計十か所が所々に散らばる。花崗岩の島、宮島に神社仏閣や聖なる洞窟が点在するのを思い起こさせる。
 そのうちグスクだけではなく、沖縄の観光地の多くが琉球石灰岩の上に御嶽や拝所を設けていることに気づいた。例えば中部恩納村の「ゾウの鼻」と呼ばれる石灰岩の断崖絶壁、万座毛にも拝所があり、岬の付け根には万座グスクが鎮座する。北部国頭村はやんばる国立公園の一部に「琉球のウルル」と私が勝手に呼んでいる、アマミキヨが最初に沖縄に降臨したという、これまた巨大な石灰岩が天を衝く大石林山があるが、なんと四十か所以上の御嶽や拝所があるという。そして岩だけでなく、ふもとには巨大なガジュマルの杜も広がっている。
 こうした土俗信仰の中でも別格なのは、かつては国王とノロのみ参拝を許された南部南城市の斎場(せいふぁ)御嶽である。別格とはいっても拝殿も本殿も鳥居もない。香炉はあるが祭壇すらない。あるのは二つの巨大な石灰岩がもたれかかるように鎮座し、その間に向こうに抜ける道があるのみだ。そしてそこからも久高島が遥拝できた。
 ヤマトで別格とされる神宮とは異なる点も多い。神宮が後世の影響を廃してオリジナルの建築を式年遷宮で取り戻すならば、ここはそもそも後世の影響などない。遷宮以前に建造物がない。琉球各地にもヤマトの影響を受けて神社型の拝所が多数あるが、それ以上に木や岩の前にコンクリートブロックが無造作に置かれ、水など最低限のものが備えられている。観光地ではなく地元の人々だけが訪れる拝所が圧倒的に多い。そしてそれこそが伊勢神宮以前の、琉球はもちろんヤマトでも神々と人間との交流のあり方ではなかったのか。
 そのことを胸に、もう一度内宮の杜を歩こう。

アマテラス中心主義とスサノオ中心主義
 いよいよ五十鈴川から神宮正宮前に向かう。正宮は小高い丘に鎮座する。なだらかな石段を登りながら思った。琉球のグスクが聖なる御嶽を要塞化したものだとするなら、グスクから要塞的要素を取り除けば神宮、いや、本土の神社になるのではないか。城郭マニアとして見れば、正宮の周りを囲むように流れる五十鈴川は天然の堀であり、この正宮のまします丘に石塁を巡らせればそこは「本丸」となる。しかし本土の神社はそうはならなかった。仏教寺院は一向宗が立てこもったり、比叡山延暦寺などは信長と戦ったり、あるいは江戸時代において城下町にある寺院の多くが出城としての機能を果たしたが、神社は平和を保った。
 正宮にて二礼二拍手一礼をし、感謝を述べ、古殿地を見た。遷宮の時にはまだ存在していた建物が、すっかりなくなっている。沖縄の御嶽を思い出す。改めて正宮に向き合いながら、なにかしっくりこない自分がそこにいた。本土の神々はほとんどこの目の前の天照大御神をハブとして位置づけられている。例えばその孫が日向高千穂に降臨したニニギノミコト、その妻が富士山の女神となる此花咲耶姫、二人のひ孫が後の神武天皇、その子孫が今上天皇ということになっている。
 しかし出雲の私がここを歩くたびに、無理してこの流れに逆らっていることに気づく。どうやら私にとってのハブはスサノオノミコトであり、その妻がクシイナダ姫、姉がアマテラス、両親代わりがイザナギ、イザナミ、娘代わりが厳島の宗像三女神、子孫あるいは娘婿が出雲大社のオオクニヌシ、その子が諏訪大社のタケミナカタたち、、、というように「皇国史観」に反発した「出雲中心史観」のような「神々の家系図」が浮かんでくるのだ。

伊勢と出雲
 こころの中でアマテラスに問う。出雲では旧暦十月を「神無月」ではなく「神有月」とよび、日本中の神々を出雲に呼び寄せて「神々の国会」を開くのだが、その時「新嘗祭」を理由に神宮のアマテラスが「不参加」なのはなぜか。国のあり方について神々が討議する際にその場にいつもいないのは一体どうしたことなのか。と。皇室が政(まつりごと)をする正統性をアマテラスに、神宮に求め、民を統治する際の観念として
顕界(都の天皇)+幽界(伊勢の皇祖)
という構造を作り出したのだろうが、出雲から見れば
顕界(都の朝廷+伊勢の皇祖)VS幽界⦅出雲国造+(スサノオorオオナムチ)⦆
というように見えてくるのだ。出雲の私にとって神宮はこの世のものでしかない。とはいえ、出雲と伊勢・朝廷に対して敵対しているわけでもない。卑弥呼の宮殿かともいわれる大和の纏向遺跡では、伊勢神宮型の神明造と出雲大社型の大社造が並立している。それが東に来て神宮に、西に来て大社に、というようにも思えるではないか。
  神代に始まる出雲中心の歴史スパンから見直すと、「古代」とされる神宮の造営など「近代」にも等しい最近の事象といえる。11世紀に書かれた「更級日記」には「つねに、『天照御神を念じ申まうせ』と言ふ人あり。いづこにおはします神仏にかはなど、さは言へど、やうやう思ひわかれて、人に問へば、『神におはします。伊勢におはします。(後略)』と言ふ。」とある。神宮の知名度は京都の文化人、菅原孝標女(たかすえのむすめ)ですらその程度だったのだ。彼女が出雲族の子孫とされる菅原道長の子孫だからあえて言っているわけではなさそうだ。神宮が全国区になったのは、せいぜいここ三百年ほどのことではないか。そして幽界を支配してきた出雲が顕界を支配してきた伊勢にその地位を譲らされたのは1881年、明治政府の大隈重信や副島種臣らが政治的に決めた時にすぎない。

「和魂(にぎみたま)」と「荒魂」
 正宮を離れて、最後に正宮に準ずる十か所の別宮(わけみや)のなかでも最上位とされる荒祭宮(あらまつりのみや)に参拝した。祭神は天照大御神の「荒魂(あらみたま)」である。神道では同じ神でもやさしく作用する「和魂(にぎみたま)」と荒々しく作用する「荒魂」に分けて考えるが、正宮に祭られる天照大御神は「和魂」であり、ここに祭られるのが「荒魂」だという。言い換えれば「私幣禁断」、すなわち個人的な願い事を禁じ、感謝を述べる場というのが原則である正宮の神は「和魂」だが、余りあるパワーで災害をもたらしかねないけれど逆に願い事をかなえてくれる可能性が高いのが「荒魂」ともいえる。
 岩や木の前の御嶽や拝所で静かに感謝をささげる沖縄のおばあたちや、国家の安泰、五穀豊穣などを祈る各社の神官たちは「和魂」に働きかけている。一方、江戸時代に庶民が一斉にお伊勢参りをしたのも、出雲大社に縁結びを願うのも、伏見稲荷で商売繁盛を願うのも「荒魂」への期待であろう。
 それが過剰になると、崖から落とす御柱にまたがって離さない諏訪大社の御柱祭や、幕末大政奉還直前の半年間、東は江戸から西は広島あたりまでまさに全国規模で湧き上がった「ええじゃないか」につながる。「ええじゃないか」は神宮のお札が空から降ってきたとして、男が女装し、女が男装し、アナーキーな状態の中で半狂乱で歌い踊り、伊勢を目指したのだ。薩長土肥では起こらなかったことから、新政府軍が人為的に起こした騒擾事件ともとれるが、荒魂が人々を熱狂の渦に巻き込んだのだろう。
 今回歩いた神社以外にも明治神宮、浅草神社、日光東照宮、鶴岡八幡宮、平安神宮、八坂神社、太宰府天満宮など、訪日客で毎日ごった返す神社も少なくない。写真映りもよく、願い事も叶いそうなこれらの神社は正に毎日が「ええじゃないか」も真っ青の熱狂にうなされ、訪日客はもちろんノリに流されやすい日本人の乱暴狼藉すら確認できる。それすら「ええじゃないか」と受け入れる前に、思い起こしたいことがある。
 神社や御嶽を歩いてきて、そのエッセンスが神宮にあるのは認められた。それは先祖と子孫とのつながりの間に自分がいることへの感謝であり、天地(あめつち)の間の山川草木がそれぞれつながり合い、巡りめぐっていくことへの驚きであり、心身ともに明るく清らかであり続けることの大切さである。そのことをしっかり肝に銘じておけば、これからどのような環境に置かれても、我々は我々らしく続いていくのだろう
 神宮だけなら「片参り」といって、願い事がかなわないという。そこで最後に弘法大師空海が修行した、内宮から10㎞ほど東に位置する山の上の密教寺院、朝熊岳(あさまだけ)金剛證寺で願をかけてから伊勢を去ろうと思う。(了)
 


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