連載『あの頃を思い出す』
5. 誘惑の合言葉・・・5
その日は別段、特別という気持ちはなかった。
その日に限ってなにをしようとか、どこかへ行こうといった計画もなく、普通に朝を迎え不断通りに子どもたちを送り出し、図書館へ向かった。
そしていつも通りの平和な1日が過ぎようとしていた。
就業間際、カウンターで雑誌の登録をする尚季(ひさき)の視界に、軽い音と共になにやらゴージャスな形の腕時計をはめた腕が差し出された。それは銀行の窓口で札束をかぞえるおねえさんを待つべくそわそわと繰り返される。人差し指で机を叩く癖などあっただろうか。
尚季はチラリと一瞥し、落胆の溜め息をつく。
「なによ?」
相変わらずの態度でパソコンの画面から目も離さない。
「今日はいないみたいだな」
カウンターを叩く指はそのままに、さらりと奥に目を流す。瀬谷の姿を探しているらしい。
「今ジムの方が忙しいらしいから」
一応は答える。尚季としても気になっているところだ。
「やめてくれない? イライラする」
顔を見ずに指を見る。しかし、どうしても時計も目に入る。厭味な腕だ。
「もうすぐ上がりだろ、待ってるから」
「なんでよ? 待つ必要なんかないわよ」
「今日誕生日だろ、さくら」
言われて一瞬手を止める。
「憶えてたの」
それはさすがに嬉しい。だが、相手が違う。
「まぁ、一応な。で、」
「パス」
パソコンの指が忙しく動く。
「やっぱり。…圭と会うの?」
「会わない」
「なんで? 誕生日だろ?」
「知らないもの」
「あっそ」
再び、瀬谷の姿が現れやしないかと出口を降り返る。
「あいつ、そういうのまるでだめだからなぁ。オレが言ってやろうか」
「やめてよ」
楽しんでいるのがみえみえだ。
どうにも仕事が進まず立ち上がる。登録済みの雑誌を積み重ね、経場(けいば)に構わず事務室に去ろうとして考える。
尚季は今まで、自分から瀬谷に連絡をとることはなかった。あえて自分から誘う理由もなかったし、用があるときはいつもたいてい瀬谷の方からの誘いが多かった。別にすねるわけでもなかったが「はじまってさえいない」と気づいてしまった。
不意にいたずら心が顔を出す。
「わざわざそのために来たの?」
「まぁな」
一瞬の間の後、他人事のように答える。そうされて嬉しくない者はいないだろう。
「でもわたし、あのうるさい車には乗りたくないの」
断るつもりの言葉だった。だが。
「今日はタクシーで来た。この間のこともあるし」
先日の雨の日の一件を気にしているらしい。そのお詫びのつもりだろうか。
「そう…」
ここしばらく、未知の出現もあって瀬谷とまともに会話した記憶がない。当の瀬谷はあの夜以来現れない。それに、友人と食事をすることは良くあることだ。