母+わたし×料理=ばあちゃん (たゆ飯番外編:ちょっと思い出話)
わたしの母親は古い人間なので、パスタはあまり自分から好んでは食べません。が、たらこスパゲティだけは時々食べたくなるらしく、たらこや明太子が手に入るとよく「作ってくれ」と言われます。これまで(子どもの頃)作ってもらっていた立場のわたしが、母親に「作ってくれ」と言われるのは、なかなかに嬉しいものです
そして彼女は「自分は料理が下手だ」と謙遜までする。ほんとに下手かは別として(普通に食べてたし)、そんな風にわたしをほくほくさせる彼女は、母親として見習うべきところがたくさんある
幼い頃、台所に立つ母にわたしも「やりたい」「手伝いたい」というと、決まって「あとでイヤってほど手伝ってもらう」と言われていました。その時のわたしは体よく断られていたのだと思っていたのですが、ホントにやりたくないときに限って母親はわたしを台所に呼ぶのでした
子どもにとっての台所は「ママごと」の延長です。「やりたい」と思っていた頃はなにをやりたがっていたのか、今ではまったく思い出せません。が、ただ母がわたしに「手伝ってほしい」と思う頃にはもう、わたしの好奇心も興味も台所からは離れていた、ということです
はい、わたし、もともと料理は好きではありませんでした
料理が好き…というと、子どもの頃から台所に立って「一人でできるもん」張りにさくさくこなしたお子さまのように思われがちですが、たまに呼ばれて手伝う料理はすり鉢でとろろをすったり、てんぷらの上げ下げ、さらにはポテトサラダを素手で混ぜる…と言ったような、およそ料理とは思えないいやな作業だったのです。すり鉢作業はとても根気のいる疲れる作業ですし、てんぷらは油がはねてイタイ。ポテトサラダに至っては、なぜに5本指で混ぜねばならないのかよく解りませんでした
わたしは田舎育ちです。そして母はもっと田舎の農家育ちでした。比較的町場で生まれたわたしは、まわりにどんなに田んぼや畑があろうとも、それを楽しんですることはありませんでした。母親は母親で、農家を嫌ってそうではない父に嫁いだのだと言っておりました
母親の実家に行くのはとても楽しかった。母の実家は田んぼこそやっていませんでしたが、わたしが幼い頃は「お蚕さま」を生業としていたので、山の中腹に桑畑と、野菜畑がありました。そこに行ったのもおそらく数えるほどと記憶しておりますが、そこはわたしの場所ではなかったので、そこに楽しみを感じない今のわたしに至ります
母の父、つまりわたしの祖父は9人兄弟の長男で跡取りではありましたが、親が分家した手前形式的には別地に家がありました。ですのでその住まいは「隠居」と呼ばれており、その祖父の親の出た家である本家は「かって」と呼ばれておりました。多分「お勝手(台所)」の意味から来ているかと思うのですが、よく解らない仕組みで当時はまったく理解できませんでした。ですので跡取りでありながら裕福ではなく、本家らしい「かって」の方が土地も家も暮らしも贅沢なのが、わたしには不公平に感じていたのです
なぜこんな話をするかというと、それだけの大所帯だったのでお正月とお盆はとても賑やかな家で、わたしは子どもながらに「大きい家には嫁がない」と心に決めていました
台所はいつもてんやわんやだったのではないかと思います。遊び惚けていたのでどんな様子だったのかが思い出せないのですが、わたしの母親にとっての「帰省」はいつもまったく忙しそうではなかった。忙しいのはばあちゃんだけだった
母親の実家は土壁の、囲炉裏もあれば風呂は五右衛門、台所は土間造りで、時々かまども活躍していた『日本昔ばなし』のような絵面でした。夏は涼しく、冬はさらに吹きすさぶ、トタン屋根の下は茅葺の、縁の下には潜って遊べる、誰も行かない中2階にはお化けが出そうな、そんな家屋でした
天井は煤だらけだし、梁は真っ黒、あれは自然の木の色だと当時は思っていましたが、囲炉裏のせいなのだと知ったのはだいぶ大人になってからことです。広い土間の台所は土壁がいろんな形に見える暗い場所で、床は濡れれば普通に足をとられる外のようなでこぼこした土間だし、さすがにガス代と湯沸かし器はありましたが、それはそれは子どもの目には不思議なものがたくさんありました。漬物桶、味噌桶、丸がめ、壺、その他全部になにか妖しい食べ物が入っている…と思っていた。正体は梅干しだったり粕漬だったり、ぬか漬けにみそ漬けにどぶ漬け、みんな自分の口に入ってくる物ばかりでしたが、子ども心にはなかなかにおどろおどろしい場所でした
さて、盆暮れ正月はとにかくたくさんの親戚がやってきます。平屋の続き部屋には所狭しとたくさんの布団が敷かれ、ときには納屋についている炭小屋のようなところにまでお客さんが寝かされていたこともありました。祖母の家には大きなザルやお鍋がたくさんありまして、一度にそれらを満杯に作っても翌日には継ぎ足さねば朝食にもなりえないありさまで、ゆえに5本指で混ぜなければいけないほどの量のポテトサラダが存在したわけです。あれを箸で混ぜていたらおそらく折れます。しゃもじを返すほどの力も子どもにはなく、わたしは長女の娘というポジションから台所はもとより、大人には多く呼ばれたのでした
他のいとこたちより多く名前を呼ばれることは今でこそ優越感ですが、当時はそうは行きません。なぜなら怒られるのも、手伝いを強要されるのもかっこ悪いことばかりだったから(あぁ見栄っ張り)
祖母の料理はとても美味しかった。未だばぁちゃんの豚汁を超えるものはありません。そしてわたしのポテトサラダもまた、そのひとつなのです
今でこそ5本指で混ぜることはありませんが、あの頃の味は覚えている。昔は電子レンジのある家も少なかった。大量のじゃがいもを茹で、つまみ食いをしながら潰し、冷たい手できゅうりを塩もみして、卵を潰す…魚肉ソーセージだけはくにゃくにゃしていたので切らせてもらえませんでしたが、これらの工程が今のわたしの原点なのかもしれない。もっと簡単にできないものかと、もっと楽にならないものかと頭を使った最初の料理だったから
今はもう、ジャガイモはチンだし、塩もみだってもうなん本もいりません。時短時短に手抜きでぴゃっですよ
料理というものはその家の味だったり、文化だったり伝統? そして思い出だったりするのですね。ばぁちゃんの豚汁は今、従弟のお嫁さんがいちばん近いと言われている。あの子は素直にばぁちゃんの味を受け継いだ。でもわたしは、それをするのは嫌だった。自分の味でうならせたいと思ってしまったから(あぁここもプライドか…)
ばぁちゃんの味を再現することは出来る。絶対音感は備わってないけれど、味の足し算引き算は出来ているつもり。そのうえでわたしはわたしの味を子どもたちに引き継ぎたいと思っている
ばぁちゃん~母親の味で育ったわたしだけれど、今現在、母親~わたしの味を「おいしい」と言ってくれるわたしの母親がいて、たとえ外で食べてきても「家のご飯が食べたい」と言ってくれるわたしの子どもたちがいる。だからわたしはわたしを追求していきたい。いつか誰かがわたしのやり方を改善して自分の味を求める時が来るかもしれないから
手の込んだ料理を作らないわけではない。ただ、歳をとって台所に立たなくなった自分の母親を見ていると、いつまでも台所に立っていたいわたしは、今の手抜きを追求したい。手の込んだ料理は、若い人が好きな人のために時間をかければいいと思う。わたしにもそんな時があった。どんな料理でも食べてくれる人がいるだけで楽しいし苦ではない。でもいつかそれが出来なくなる日も来るのだろう
それまでわたしは、どれだけの手抜き料理を考案できるだろうか
ひとつだけわたしには真似できないものがある。それは母の漬物だ
大根の麹漬け、酢漬け、白菜の塩漬け。あれを誰かに引き継いでもらいたいと思う。場所的に、こちらでは旨く漬からない。実家近くでだれか…そう、姪っ子でも覚えてくれないかなぁ…と、目論んでいる
いつも「たゆ飯」をご覧になってくださっているみなさん、わたしのへんてこな料理を楽しんでいただきありがとうございます。味はひとつではありません。ご家庭の味を大事に、自分の味を追求するためのヒントになればと思います。来年もまた「たゆ家」のレシピにおつきあいくださいませ