得手不得手 ≠ 好き嫌い
わたしは料理が好きだけど、得意では無い
なぜなら面倒な軽量は適当で、それを「簡単」とは言わないし、きっちり分量通りじゃなければイケないお菓子の類はまったく作らない。それと並行して高級食材を使ったり「本格的」と言われるような調理は一切やらないから、得意とは言わないと思うのだ
きっと「得意」と言えるひとは「北京ダック作って」とか「ブイヤベース食べたい」と言われた時に、なんのてらいもなく「OK」と応えられるひとだと思う。得意は「出来ない」と言わないのではないかと
最近ちょっと思ったんだけれど、料理が「苦手」とか「出来ない」というのは、やる気もそうだけれどどれだけその味を求めているかという「熱量」の違いじゃないかと?
同じ麻婆豆腐を食べるにも、とにかく麻婆豆腐ならいいのか、どこぞの中華料がいいのか、果たしてだれかの麻婆豆腐がいいのかにもよるンじゃないかと
例えばわたしは、我が子に料理を強要しないし教えもしなかった。やりたければやればいいし、必要な時にはやらなければならないことだから「料理」を強いるのはわたしじゃなくてもいい
わたしがいない時に、わたしの味がどうしても欲しいと思えば「教えて」というかもしれない。でもわたしが居ても居なくても、他の味または似たような味で間に合うのであれば「知る」必要はないのだ。それが興味とかヤル気に繋がってくるのではないかしら
・・・・と、思ったのだがどうだろう?
これを踏まえて「味」を興味と捉えれば、それを自分のものにしたいかそうでないかで、好き嫌いが分かれ、自分でも同じものが出来るようになりたいと思えば、それを作ってみよう、作りたいとなるのかなーと思った
さらに色んな味を極めたいとなれば、ひたすら麻婆豆腐を研究し「好き」が高じて「得意」を打ち出すのかもしれない
作ってみよう程度なら「得意」でなくとも「好き」なことならやれるけれど、思うだけに留まるのは料理に興味はあれども、自分じゃなくていいとなる。自分でなくてもいいと感じるのは「苦手」分野だから…となる。好きなだけなら「出来ない」と言っても許されるし、苦手はそもそも「やらない」わけだ
また、料理が「好き」でなくとも器用であれば「得意」ではあるということもあるかもしれない。嫌いだから「出来ない」かもしれないが、やれば「出来る」ひとは天才肌。もしかしたらそういう人の方が仕事にしたら上手くいくのかもしれない
これは料理に限らず言えることだろう。単純に勉強とか・・・・
「好き」を極めれば頭に入ってくるし、あれもこれもと吸収したくなる。努力すれば上を目指すことも出来るだろう
「嫌い」は単純にやりたくないから前に進むこともない。けれど、嫌いでもできてしまうこともある。そんな人が羨ましかったものだ。凡人とそうでないひととの違いがここ!
わたしは明らかに凡人で、好きであれば頑張れないこともない程度のレベルのひと
得意でも上手でもないけど、嫌いじゃないからできる…は、多分やってもやらなくても同じなんだろうけど
そんなミシンのご褒美いただきました(´。✪ω✪。 ` )
ありがとうございます(o^^o)
久しぶりじゃないかな…最近ハッシュタグをあまり気にしてつけてなかったから
やりっ放し、出しっぱなしであったなら、もっといろいろとやってみようかなと思うかもしれない。でもそんな贅沢なスペースってそうないよね
まぁ片付けられないひとのいいわけだけどさ
でも「好き」であれば片付けも面倒じゃなくて、きちんと収まりよく出来るだろうし、やりたければ場所なんて関係ないんだよね。わたしの場合パソコンがそれかな。でもやっぱり得意では無いんだよね (▭-▭)