父の日
父とわたしの誕生日は6日違いだった
父は、生まれた日も亡くなった日も25日。だから今年は少しおセンチな気分・・・・.
6年前、父が亡くなる前、最後に会ったのが『父の日』だった。それまでもわたしだけは単独でちょいちょい帰ってはいたけれど、あの時は『父の日』だからと家族で見舞いに帰ったような気がする。あの日も19日だった
『母の日』と『父の日』はアメリカが発祥なのだそうだ。そして、一番最初の『父の日』も6月19日なんだってさ
今日は父の話をする日・・・・
6年前の今日も土曜で、なにか予定があったのかは忘れたけれど、みんなが早起きで、今思うとソワソワしていたかもしれない。妹から電話で「病院から連絡があって、容態がおかしいっていうから今から行ってくる」と言われ、わたしは「高速でいけ」と答えたのを覚えている
しばらく待っていたけれど、結局わたしたちはすぐに出掛けることにした。そして、出掛ける直前に「間に合わなかった」と連絡がきた。妹の悲痛な声を聞くのは震災以来。わたしは彼女の、あのなんとも言えない声を二度と「聞きたくない」と思っていたのに…
自宅から1時間、高速だと遠回りだけれど、それでも40分。最初から「すぐ」と言われて間に合う距離ではなかった。そしてわたしは実家から300キロ離れたところにいて、早くても片道3時間は掛かるところにいる。でも、きちんと「みとれる」と信じて疑っていなかった
わたしは子どもたちに「じぃちゃんは照れ屋だから『ちょっと見られたくないなぁ』って思って逝っちゃったんだよ」と答えたらしい。そんなこと、言ったのかもしれないけれど、覚えがない
「じぃちゃんらしいよね」と娘に言われ、自分で自分の言葉に驚いた
(あたし、すげぇこと言ってんな…)って
確かに父は照れ屋だった。童顔で、幾つになっても若造扱いされ「いい大人捕まえて!」って、いつも怒っていた父。でもお父さん、わたしの「同級生」って言っても充分通るくらいに、はにかんで笑うくしゃくしゃの笑顔がなんとも可愛らしかったのよ
遺影もニコニコのいつもの父を選んだ
今どきの遺影はiPadみたいのに映し出されるのね。なんだかいろいろと仕様が違って、それまで自宅葬が当たり前だった田舎者には目新しいものばかりだった
面白いことに(言い方悪いけど)、だれひとりとして涙を見せることのない、笑顔のお葬式だった。あんなに「ギャン泣きして仕切れなかったらどうしよう」って言っていたわたしも、妹も、母すらも泣かなかった
父の治らない病のことを知ったのはそこから何年前だったのか…既に妹から聞かされていたけれど、自分の口から言いたかったんだな。珍しく父の方から我が家に出掛けて来て、ふたりのときに話をされた
「聞いた? お父さん死ぬんだ。平均寿命までもたないんだってよ」
あまりにも冗談ぽく言うから「またそんなこと言って」っていっちゃったけど、もう少し気の利いた言葉がなかったのかと今でも思う
気丈というかなんというか、父は自分の死をまるで「見知った場所」のように日常的に受け止め、冗談でも話すように笑って話していた。担当医の先生も「本人があっけらかんとしてるから、こっちが本当に病気なのか疑う」と言っていたくらいだ
怖くはなかったんだろうか? 母に聞いてもなにひとつ弱音は聞いていないという。もともと諦めのいい父だったが、現状は受け止めても生きることは諦めてはいなかったと思う
それからも父は普段通りの生活を当たり前に過ごした。少しずつ「自分の形見」だといって、孫たちに自分の時計や財布、まだ使えそうなものを渡した。当時大学に入学したての娘にはダイヤのネックスをプレゼントしてくれた
形見とか「なんでそんなこと言うの」っていつも思ってたけど、子どもたちは今でもそれを大事に持っている
そういう行動があったからなのか、わたしたちは心の準備をすることができたのかもしれない。突然じゃないことは残される身内にはそういう効果があるのかもしれない。けれど、父は本当はどう感じていたのだろう・・・・
大人になってからはあまり会話らしい会話もなかったけれど、子煩悩だった父のと思い出はいろんなところに残っている
父は将棋が好きで、毎年町の将棋大会で賞状を貰って帰ってきた。その規模がどの程度なのかは解らないけれど、なんにしても「優勝」は功績
子どもの頃、わたしも教えてもらったけれど、結局わたしは駒の動きしか覚えることができなかった。わたしたちが男の子だったら違ったのかな
例えばスポーツ。父は野球が好きで、ソフトボールチームに所属、選手兼監督をやっていた。それは決して万能というわけではなく、面倒を押しつけられていたように思うけど、マメな父には適任だったみたい。大人といえど、もとはやんちゃな少年の延長で、メンバーには喧嘩っ早いひともいたから、いつも「参ったよ」って言っていた。そして父はお酒が飲めない。打ち上げの際は、みんなを送り届けてから帰ってきた「酔っぱらいは大変」といいながら・・・・よくやるなぁって思ってた
子どものソフトボール大会の時も、必ず練習に付き合った。わたしはそれが自慢だった。スポーツが得意でもないわたしは、上手でもなかったから、いつも他の子を褒める父がちょっとだけ恨めしかったことを覚えている。でもわたしは負けず嫌いでもないから、ちょっと落ち込むだけ
例えば食事。父はマヨラーで中濃ソース好き。野菜炒めには必ずマヨネーズとソースをかけた。温野菜を食べるときも、生野菜を食べるときも、野菜よりもマヨネーズを食べているのじゃないかと思うくらいにいつでもマヨネーズ。目玉焼きやカレーには、ソースをかける。それはそれは楽しそうに…
父との食事で印象に残っているのはトースト。トーストにはマーガリンではなく、マヨネーズに砂糖を混ぜたじゃしじゃしのペーストを塗って食べた。わたしも子どもの頃はそれが大好きだった。時々、思い出して食べてみようかとも思うけれど、なかなか手が出せない
他にもいろいろとあるけれど、あとはひとりでしみじみ思い出すことにしようと思います。今日は、甘党の父が大好きだった黒糖の「かりんとう」を食べながら、家族でお茶でもすすろうと思います
長々とお付き合いくださりありがとうございました