肉眼で見る月はいつも満月
眠れない夜は窓を開け、月を見ていた☽
そういえば子どもの頃は、ひとりでいるときより家族の寝息を聞きながらよく泣いていた。ひとりでいるより、沈黙の中にひっそりと息をひそめているときの方がよりいっそう孤独なのだ
なんでか子どもの頃は「幸せいっぱい」「夢いっぱい」ではなかった。子どもは無条件で「幸せいっぱい」「夢いっぱい」なのだと信じていたことにもお笑いだが、それを抜いてもあの頃は、不安ばっかりが常に頭の中にあって「死にたくない、死にたくない」って、悪いことばかりを想像してをいたように思う。今息をしていてもどんどん死に近づいている…ついさっきまであの四つ角にいたのに…なんて、通学路の側溝の穴を眺めながら考えていた。とにかく「死」に対する恐怖心が常について回っていた
よく「子どもはこの世のモノじゃない」なんて、あの世と背中合わせのあいまいな存在であることを聞くが、もしかしたら潜在意識の中にそういうものが潜んでいたのだろうかと考えたこともある
そう、あれは2段ベッドを買ってもらい、両親と布団を並べなくなった頃…いつくだった? まだ小学生だった気がする。2段ベッドが届く前までわたしは「下の段で寝る」と妹と約束をしていたのに、届いた当日に彼女が体調を崩し、下の段に寝かせられたことをいいことに上の段を占拠した。当然妹には「話が違う」と責められたが「だってお前が先に下に寝た」からと、得意の言い訳を正当化して死守した2階。立ち上がれないほどの距離で天井が近くて、なんだか天井が落ちてくるような恐怖を味わいながら勝ち誇った気分で初めての夜を過ごした。実家はそれほど古い建物でもなかったが、天井の模様はやはり人の顔に見えたり、アニメの悪者に見えたりした。天井が近いと、とても狭い所に閉じ込められているような感覚にもとらわれた。縦に筋のついた天井だったので「棺桶の幅はこのくらいだろうか」などと考えたこともあった。2段ベッドの下を覗けばまた、とても深い気がした
2段ベッドの上は窓が真横だったので、よく細く開けた隙間から月を見ていた。当時のわたしはすでに近視で、よっぽどの細い月でない限り肉眼で見る月はいつもぼやぼやと膨張した満月だった。ま、考えようによっては常に「満月が見れる」と思えばいいのだけれどね、本物の満月となると二重に見えたりして、横広だったりと、実にかわいそうな感じだったよ
結婚式のためにコンタクトを半年間だけ使用したことがある。ウェディングドレスに眼鏡という写真を残したくなかった。その時見た月はとてもきれいだったことを覚えている。結婚が決まった時はおそらく、生きてきた中でこれ以上にない幸せを感じていたことだろう。そんな時に見る月は本当にきれいで、しかもコンタクトレンズを通した目ではあったけれど、滲むこともなくぼやけずとても澄んでいたのだろう。もう一度あんな月が見たいなぁ…
今はなんだかとても月が遠くに感じる。郷愁を感じるほどではないけれど、まるで今いる地球が月で、実はあちら側が本物の地球なのではないかと思えるくらいに遠くて帰れないところのように感じている
わたしはもともと寝つきが悪く、月が見える日はいいが雨が降っている夜は余計に眠れなかった。我が家はトタン屋根、そこに落ちる雨音を、トトロのように楽しむことはできなかった。パたたた…んっって音がね、耳障りで、怖くて余計に眠れなかった
昼間の太陽で暖められたトタンが、急に冷え込む夜に鳴くこともあり、それはまるで人の足音のようにも聞こえてくることもある。実際に人が歩いていたこともあるらしい。明るい時間に足跡を見たことがあるのだ。家の中に入ってくることはなかったのだが、あれは果たして本当に人間の足跡だったのか・・・・
泥棒を想像して眠れなくなることもよくあった。わたしの想像の中の泥棒はいつもカールおじさんのような髭のある黒目がちでげじげじ眉毛のおじさんだった。想像の中の泥棒はいつも2階のベランダからやってくる。カーテンを開けたら「目を見開いたとぼけた顔のおっさんと目が合う」…という、変な想像をしていたなぁ。子どもって想像力がたくましいから、自分で恐怖を作り上げてしまうんだね
今でこそそんな想像はしなくなったけれど、夜の怖さは多少残っていて、カーテンの隙間の黒い部分が未だに怖かったりする
子どもの頃と言えば、道路をはさんだお向かいさんの家には森があって(子どもには森だった)時折静まり返る部屋の外から、どこからか聞こえてくる「ケケケケケ…」という鳥の鳴き声に震えた。このケケケは、一晩に一度しか聞こえない。だけど毎日聞こえてくるのだ
妄想癖のあるわたしはよく、くちばしの大きな目玉のぐりっとしたペリカンみたいな鳥が潜んでいるのだと思っていた。もちろんそんな鳥はどこにもいない。むしろ雉ではないのかと母親に言われたこともあったが、雉は「ケーン、ケーン」と啼くのではなかったか?
中学の頃、その家は火事になり、そのついでのように森がなくなると、ずっと奥に続いていると思っていた森はそんなに広い敷地ではなかった。そりゃそうだ、普通の家の庭なんだもの、森のはずがない。今では記憶の中だけの真っ暗森だ
近頃は務めて空を見上げることはなくなった。でも、noteを見ていると、たまに「満月」だったり「星」だったり、素敵な夜空をupしている記事を見かけようになった。だから自分も、たまに空を見上げてみる。でも子どものころに見たあの月ではない。今の月はあの頃よりも遠い。年々月が遠ざかっているとも聞いたことがあるけれど、とにかくあの頃よりも遠くて、小さく感じる。でも、滲んだり歪んだりもしなくて、ちゃんと月だ。なにが違うと言われても、見ている目が違うというより、きっと心が違うんだろうなと思う