基本「女」は気まぐれだ
ちょっと思うところあって、珍しく、子育て談義をしてみようと思う
年が変わる前に、いやこういうことは早めに反省しておいた方がいい
わたしも「言葉を知らなかった」と言えばいいわけになるけれど、
母親は娘に「女だから当たり前」を前提に話をしてしまう嫌いがある
うちには娘と息子がいて、「女」と「男」という括りで当たりが違うことが多々あり、結果ふたりの心の中には「不公平」が生まれたことでしょう
幼い娘にとって「母親は怖い人」で、息子とって「母親は正しい人」という間違った概念を植え付けてしまった
わたし自身は姉妹で、それでも自分の母親に対し「不公平」を感じていた
同性の兄弟でさえ母親の「不公平」を感じていたのだから、我が家の姉弟はもっとだったのではないかと反省しております
しかし、ふと思った。別に平等でなくてもいいのかもしれない…と
娘だろうが息子だろうが個人として個々に向き合えば、それであちらが満足するのなら、こちらの平等を押し付けることはないのだと気づいたのだ
どうしたって「不公平」は生まれる。それはあちらのこちらに対する愛情の裏返しだと思っている。だって「不公平」を感じる感情はつまりは「嫉妬」なのだから
あたしって愛されてる~(^^♪・・・と母親は満足できる。が、
果たして子どもらはそうだろうか? いつでもこちらの愛情を、当たり前だととめどなく欲している子どもたちは充分にそれを感じているのだろうか
だから成長過程にある子どもに対し、母親は気分で会話をしてはいけない
それは時として「言葉の虐待」に値するからだ。「気分で会話する」ということは、明らかにこちら本位であり、あちらは確実に傷ついている可能性があるからだ。それを解っていて気分で喋っている。それはもう悪意でしかないだろう
それはわたしの場合、娘に限って大いに該当するといえる。なぜなら娘は「女」だから。そう、その時のわたしは「母親」ではなく「女」として気分で喋っている。それは「女だから当たり前」という自分の中の常識を前面に押し出して話をしているから、どこかで汲んでくれと訴えてる
もしかしたら彼女は知らないかもしれないのに、彼女の中ではまだ「常識」として認知されていないかもしれないことを「女だから当たり前」という前提で攻めているのだ
対し息子にはどうか? 気分は反映されていないのか、いいやそうとは言えないようだ。こちらはまた「男だから解らない」を前面に押し出して会話する
解らないなら教えてやればすむことなのに、こちら側は「女」で「女」には諸事情が伴うから汲んでくれと訴えているのだ
これは決して「母親」を振りかざしてやっていいことではなかった。素直に女の子は「こういうことがあるからこうしてあげなさい」と言えばいいことを、こちらも気分で汲んでくれとニュアンスだけで伝えようとしたのだ
これじゃぁ「女の気持ちの解る男」は育たないと反省
こうした「理不尽」はまた、「不公平」と違って子どもたちの中に性別の「奢り」を植え付けてしまう
「女のくせに」とか「男のくせに」とかいうあれだ
しくじった…だが、それは正せばいいことなのだ⊂⌒~⊃。Д。)⊃
血は水よりも濃いのだ(これは母親としての明かなる奢りだが)話せば解る
直接聞いたわけではないが、『五体不満足』の乙武氏がどこぞの講演会で「もっと自分の子どもを自慢しましょう」と言っていた。でもおいそれとはできない。しかし、でかい声で自慢する必要はないのだ。自慢する前に、もっと本人たちに伝えるべきではないかと思う
あんたはかわいい、あんたはいい子、とにかくあんたたちが大好きだ、と
そこは血に甘えてはいけない。言わなきゃ解らないし、伝わらない。事実、「そんな風に思ってたんだぁ」と言われることが多々ある。そして、未だに揉める。血に甘えるとそんな風に誤解したまま屈折することもあるのだ
当たり前だが、子どもは成人する。つまりは今度は「大人」という括りに入ってくる。今度はあちらがこちらに、急に「対等」を振りかざしてくる番だ。そうして「時代が違う」と前面に出して汲んでくれと訴える
摩擦発生~(笑) いつまで経っても攻防は終わらない
とはいえ子どもは子どもだ。「子育て」はある意味死ぬまで続くとわたしは思っている。それはいつまでも面倒を見なければいけないということではなく、成長を見届けるのもまた「子育て」の一貫と思っているからだ
わたしもまた「人の子」で(不本意ながら)未だ成長過程にあると言える
例えば伝統料理を受け継ぐことも、あるいは我が子の成長を見せることも、きっとわたしの母親にとっては見届けたいことであり、楽しみなのだろうと思うし、わたしもそうだと思う
我が子が、なにを感じ、なにを愛し、なにを求めていくのか、
わたしはずっと見ていたいと思う
もちろん、なるべく、邪魔せずに、だ(ここが一番難しい ;^_^)