太陽にwink (^_-)-☆
子どもの頃の写真を見ると、いつもわたしは斜頸に構えていて、片目をつむっている。つむっているというよりはまぶしい顔をしているのだ
そんな写真を見るとき、どうしてお母さんはいつも「もっとちゃんとした顔の写真を撮ってくれなかったんだろう」と思っていた。シャッターチャンスはいくらでもあるのに、よりによって渋い顔をした写真ばかり
わたしは気づかなかった。自分が太陽の下ではちゃんと目を開けていられないという現実。お母さんがちゃんと撮ってくれなかったのではなく、自分がちゃんと目を開いていられなかったということに・・・・
幼稚園の時、斜視弱視の手術をした。おそらく、はじめての視力検査で引っかかったであろうわたしは眼科に通い、それまで左目を使っていなかったことが発覚する
まだ覚えている。両肩と両足を看護婦さんたちに押さえつけられ「おめめ切ったら死んじゃうでしょう」と訴えるわたしは、テレビでよく観るたくさんのライトの下に寝かされていた
顔周りでなにかされていた記憶がある。ということは、全身麻酔じゃなかったんだ…と今さらながらに回想。痛みよりも生暖かい感触だけが記憶に残っている
それから暫く眼科通いは続く
眼科は好きだった。それから毎年の夏休みに通うことになるのだが、病気という認識はなかった。子どもにとって痛い思いをしなければ、ちょっとしたお出かけだ。それはわたしの日常であり、まるで塾通いでもするかのように自然のことだったのだ
眼科の待ち時間に退屈を感じることもなかった。わたしは人見知りをしなかったから、患者さんはみんな友だちだった。少なくともわたしはそう思っていた
主な治療は視力検査だったが、中でも目を洗ってもらうのがいちばん好きだった。診察台の上にあおむけになり、顔にぴったりと器具を当てられ、人肌程度の液体で目を洗う。それが気持ちよくて、いつも奥のベッドに呼ばれることを楽しみにしていた。そういえばいつの間にかその治療はなくなったようだ。わたしには理容院の蒸しタオルのように快適な行程だったのに
使っていなかった目は、見えるようになっても光には弱く、太陽の下では目を見開いていられない。だからわたしの屋外での写真はいつも、斜頸で太陽にウィンクしているような画になったのだ
それに気づいたのはずっと後になってから…残念ながら左目は、見えるようにはなったものの視力の回復は見込めずに、わたしはまるでひとつ目小僧のように、顔の中心に右目を置いて生活することになる
それが不自由だったわけではないが、学校その他で記念撮影などをする際、いつも写真家さんに「顔の向きを直される」という不本意な行為を受けることになるのだが、それがとても苦痛だった。つまりは右目でしか視界を捉えていないから、顔がいつも左側に傾いていた…ということ
おまけに屋外でちゃんと目を開けていられないから、自然と眉間に皺が寄る。幼くしてわたしは右の眉頭に太い縦線を刻むことになる
自分はまっすぐと前を向いているつもりだった。だから写真の度に顔を傾けられることにとても屈辱を感じていた。なぜなら、無意識に右目を中心において生活していたから、顔を直されるということは、わたし側からすれば垂直に前を向いていない、むしろ傾いているのではないかという違和感が伴うのだ
だが実際は、垂直でないのはわたしの顔の方だった。盲点だった。気づいてしまえば納得はいくが、そこにたどりつくまでに結構な時間を費やした。当たり前を直視すれば、ひとの顔の中心は鼻であり、顔を二分すれば左右対称の位置に目が並んでいるもの…と認識しているから、自分の左目が極端に弱く、顔の中心に右目があるなどと考えもつかない。ガチャ目であるという現実と、両目が見えて鼻が中心にあるという常識を無理矢理当てはめていたことに矛盾が生じた
それを指摘したのは妹だった
ある時テレビを観ていて「なんでお姉ちゃんはテレビを睨みつけているの」と言われ、確かに、わたしの顔はテレビを右目で睨むように観ていることに気付いた。そこで「左目、見えてないからじゃん?」とようやっと気づくのだ
常識にとらわれるというのはこういうことだろうか。顔の中心に鼻があっても、必ずしも自分の意識に添うわけではないのだ。そんな風に常に顔が左を向いているものだから、年中無休で肩凝りだし、それがなぜかということも目のせいだとは思いもよらなかった。だが、よくよく考えれば眼精疲労というものは、目の使い過ぎに限らず、弱い部分をかばう行為からくることもある。つまりはそういうことなのだとのちに納得する
納得ができれば受け入れられる。顔の位置を直されてしまうのも、どんなにケアしても肩凝りがついて回るのも、学生時代目つきが悪いと言われ続けたことにも合点がいく。正しくは目つきが悪いのではなく、にらみを利かせていた…ということになるが、なるほど、地味なわたしがそんな行為に及べば「生意気」だと罵倒されるのも今なら理解できる。あの当時は自分のなにが生意気な行為なのかが解らなかった。態度がデカいと思われていたわけだ。ワハハ…
いや、態度がデカいのは目のせいだけではないかもしれないが・・・・
写真に関して言えばかなり長い間、納得のいくものではなった。斜視というのは斜めということであり、目の玉がうわまぶたとしたまぶたにうまいことおさまっていないということなのだ。ろんぱりという言葉をご存知だろうか? ろんぱりとは左右の目が中心におらずに「ロンドンとパリを見ている」という斜視を揶揄した俗語なのだが、わたしの幼い頃にはそんな言葉が当たり前のように使われていた
とはいえ、ロンドンとパリを向いていると言われようが子どもにはなんのこっちゃか解らない。わたしが地理に弱いのはそういうことでもないのだが、つまりわたしの左目はろんぱりさんだったのだ
手術でなんとか真ん中に戻しつつも、1メートルも離れると粗が見える。わたしの左目は前を向いていても若干目じり側の斜め上に位置しているので、時どき正面に立つ人間に「どこ見てるの?」と手をかざされることもしばしばで、それは2次元になれば顕著に現れる
写真を1メートル圏内で撮ることはない。だからわたしは証明写真の顔がいつもピカソになるのだ。だから背が低いことを理由にいつも真ん中に置かれるのも実はこちらにとっては皮肉以外のなにものでもなかった
随分と大人になって、自分の目の違和感についてはっきりと認識した頃、写真を撮る時は左側を前に立つと焦点が合うようだと判明。初めから目じりに向かって流れているのなら流れに逆らわなければ違和感も生まれない。が、結果にらみを利かせているように映ってしまうことだけは笑顔を作っても隠せないのだが、致し方あるまい
この先、どれだけ写真を撮ることがあるか解らないが、そんな理由でいつも左を正面に向けているということを知る人もいるわけではない。これはわたしだけの事情。ただ、だれかが懐かしんでわたしの写真を見るとき、どんなに笑顔を見せていても「いつもにらんでるよね」と言われるんだろうなぁと思うと面白い。それはわたしの「威厳」としておこう
まぁ人間、左右対称な顔の持ち主などいないのだから、そこまでの追及も必要ないのだが
最後に、どうでもいいことだが、ウィンクは左目しかできない
常に右目で見ようとするせいなのか、それゆえ右目の筋肉が発達しているのか、ただの不器用なのかは解らないが、とにかく左目はとことん弱視で、屋外ではたいてい太陽にウィンクしているということ