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遅延
例えば、買い物に出て食べきれない量の肉や魚を安値で買えたとする。するとそれは冷凍必須なわけで、帰ってからそれを忘れることはできない
すぐにソファに横になりたいところだが、張り切ってラップして冷凍して、ついでに半端なものは料理してしまおうとまで考える。だって、とりあえず冷凍しておかなければ鮮度その他いろいろと不都合が生じるから
↑ ↑ ↑ ここは時間通りといえるだろう
例えば、なにか食べたいものがあって、それを作ろうと思って意気揚々と買い物をして帰ると、もう食べたいもののことはどうでもよくなっていたりすることも多々。だから買い物をしておきながら食べたいものを作らずに先延ばし、または違うものにしたりする
↑ ↑ ↑ 乗り換え自由、とりあえず終点は料理
しかしながら食べたいと思ったことは欲望なわけで、食べたいという気持ちに偽りがあるわけでもないのでいつまでも「食べたい」を引きずる。が、買っておいた材料は機を逃しているかまたは違うものに変身していて材料が足りないという現状に陥っていたりする
↑ ↑ ↑ 完全なる遅刻、目的地にたどり着けない
:また買いに行く
:諦める
:次の危機を待つ
選択肢が増えると面倒くさくもなり、そのうち「食べたい」がどこかに行くことをやりすごすのがわたしの性格か
気持ちの遅延が、ここ最近どんどん増している
自分の母親が、たとえ料理嫌いだったとしても今までできたことをやらずに後回しにするようになったとき。頼まねば出てこない「おふくろの味」や、自分の食事をスーパーの総菜で済ませるとか、なければ食べなくてもいいかとかそういう現状をだらだらと日常に組み込む姿を見て、年を取るというのはそういうことかとも思った
けれど父が亡くなって、自分の腕を披露する場がなくなったあたりからそういう気力はどんどんそがれていったんだろうことは頷ける。期待されなければ答える必要もないのだ
間に合わなければ遅れてもいい。遅れるならやらなくてもいいという、気持ちの遅延がやがて「もともと好きじゃなかった」とか「もうできない」にすり替わっていく
通常ならそれは「いいわけ」としての逃げ道もあり、てへぺろで済むんだろうが、張り合いがないとてへぺろどころの話ではないのだろうなと、最近その域に足を突っ込んでいるわたしは思うわけで
料理が好きだからといって、四六時中やっていたいわけではないんだよって話だ
あぁなんだか、虚しい
ひとは食べなければ生きていけないというのに、その食べることに欲がなくなって・・・・いや、欲はある。ただそれを自分で準備するという手間を省きたい
電車でいうなら乗り継ぎを省略したいとか、家から目的地までのルートを逆算する。または出掛けて行くまでの準備、相応な装いとか白髪を隠すとか、化粧その他に到るまでを考えると「別にいかなくてもいいか」とか「今じゃなくてもいい」などとどんどん目的地が遠のいていく。気持ちの遅延はいわゆる老いだろうか
もともと出不精だし、面倒くさがりで、出掛けて行く楽しみはあっても早起きしなきゃいけないと思うと楽しみより今を優先してしまう
それでひとに迷惑をかけていないかと言われたら、まったくそんなことはない、とも言えない
解っちゃいるけど、気力がない
なんでも楽しくて、はつらつと動けたころに戻りたい
現役時代を保とうとする気力がないわけではないが、そうあろうとする努力はしていない。真摯に応えようとするならばそれなりの努力は必要なのだが、張り合いがないと手を抜く。これは奢りだろうか
料理ばかりでなく家事その他、期待されないと頑張れないとはなんと脆弱で怠惰なことか
小さな子どもでもいれば「やらなければ」という使命感から動くこともできる。でもやらなくてもいい今は、そこまで頑張らなくてもいいとも思えるのだ。が、それを良しとしない自分も存在していて・・・・
:なにか飲んだら回復できるの?
:無理にでも現役のふりをする?
:自分のことだから好きにしたらいい?
選択肢すらぐだぐだだ
そんな時もある。でもそんな時をずっとそのままにしていてなんの変化もなかったら、生きている意味さえ失いそう。それでもただだらだらしていられる自信はあるけどね
そんなこの頃なのである
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