恐るべし!人波に沈没
さて、いよいよ世界遺産イスタンブールの歴史地区へ繰り出すのだ。
股関節に問題を抱えているヨシオは、無理して歩き回ると痛みが出る。このため散策用に折りたたみの杖を持ってきた。
イスタンブール観光といえば、旧市街のオスマン帝国時代へのタイムスリップから始まる。トプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスク、グランドバザールが定番中の定番だ。
しかし、ヨシオは昼までにイスタンブールの甘くない現実を思い知ることになった。
何せ、ものすごい人出なのだ。オフシーズンも近いので大したことはないだろうとヨシオは読んでいたが、世界的にパンデミックの反動で人々は旅行に繰り出しているのか、それをリラ安が外国人観光客を加速させているのか。さらに、どの施設に入るにも、空港並みの保安検査が必要だった。これが行列を長くする。
ヨシオは最初に訪れたトプカプ宮殿で、まずポカをやってしまった。
一通り見て回って隣のアヤソフィアに向かう途中、日本語音声ガイドの返却を忘れてしまったことに気付いたのだ。
音声ガイドといってもヘッドホンではなくスマホを各国語に設定して渡してくれる。ガイドはパスポートと引き替えなので、再び一から宮殿入場の行列に並ぶはめに。人波は時間とともに一気に増え、秋とはいえ日差しは強い。
(返却は別窓口が対応してくれるので、実際にはそんな時間はかからないようだ)
そして「ビザンツ建築の最高傑作」(「地球の歩き方」)とされ、1453年の「コンスタンチノープルの陥落」も生き延びたアヤソフィア。オスマン帝国軍に難攻不落と言われたテオドシウスの城壁を破られ、コンスタンチノープルの人たちはキリスト教会だったアヤソフィアに避難して祈ったという。
アヤソフィアこそはイスタンブールがコンスタンチノープルと呼ばれた時代からの歴史の目撃者なのだ。
ヨシオはここだけは絶対に行くと決めて、旅立ったのだった。
冒頭の写真は、そのアヤソフィアの行列。場内をいくつかに区切って複数の入り口が設けられていたものの、近年、博物館からモスクに先祖返り(といっても創建時はキリスト教会)して、入場無料になったことも人出に拍車をかけているのか。
確かに隣のスルタンアフメット・ジャーミー(ブルーモスク)は格別に美しいが、荘厳さにおいてアヤソフィアにはかなわない。
旧市街にはそれこそ京都・東山界隈並みに、歴史好きには立ち止まりたくなる遺産にあふれている。しかし、杖を突いて歩くヨシオは昼過ぎのグランドバザールの人波に戦意喪失。一休みしてトラムに乗り、塩野七生「コンスタンチノープルの陥落」の主戦場となったテオドシウスの城壁を見に行った。
「丘の街」とも言われるイスタンブールをトラムは車と人々の間を這って行く。
数駅を乗り過ごせば、すぐに巨大な城壁は姿を現す。ただ、専門のガイドを雇わないとどの部分が何世紀の遺構かどうかなどは分からないだろう。イスタンブールは多分、ほとんどのところギリシャ・ローマ、ビザンチン、オスマン帝国、そして共和国の歴史が上書きされているのではないか。
ヨシオは宮殿と同じ名前のトプカプという駅で降り、さらに城壁に沿って走るトラムに乗り換えたりして城壁オタクのような観光客となった。さすがにアヤソフィア界隈からすると、人は少ない。
調子に乗ってヨシオは当てずっぽうに駅を降りたため、すぐに迷ってしまった。降りた駅に戻り、トプカプ駅からホテルに戻ろうとしても降りた駅に戻れないのだ。水を買って喉を潤し、地元の人に尋ねるのだが、聞く度に違う方向を教えられる。
そう言えば以前のインド旅行の際、「道を聞かない方がいい」との経験則があった。皆さん親切なので知らないふりができないため、不正確なことも「親切」に教えてしまうことが多い、というのだ。
ヨシオは結局、Googleマップで正解を見つけトプカプ駅に戻ることができた。しかし、ここでまたポカ? イスタンブールの駅にはトイレがない。日本の感覚で動き、水を飲むとまずいのだ。
駅前の屋台のおやじに公園内の有料トイレを教えてもらって駆け込んだヨシオ。後の旅で大体5リラ(約25円)のトイレが多かったが、そのトイレは1リラだった。だが、ヨシオは財布を見ると20リラ札しか見当たらない。
トイレの管理人の若者は「釣りがない」と、おっしゃった。
トイレの出入り口にはトラム改札と同じ金属バーがドーンと設置されている。ヨシオの窮状をその若者は見かねたのか、バーと壁の隙間を指差して「入って」という仕草をしてくれた。バーは現金を入れないと動かない仕組みのようだ。
ヨシオは横になってつま先立ちになり、隙間を抜けて入ることができた。多分、バーの回転数で売上金が分かるから、若者の仕事が管理されるのだろう。
「テシェキュル(ありがとう)」
ヨシオは仏さんを拝むように手を合わせた。
一日数回、モスクの礼拝を呼びかける「アザーン」が街に響く。歌唱のような旋律が旅情を深めた。