シドニーマラソン③ 受け入れてもらえる喜び
夕食後にひとみさんとフラーの怪我の話になる。故障に関しては絶対にこうすればという対処策はない。
自分がこれまでやってきたコンディショニングの観点について話をしてみるとフラーにもやって欲しいとのこと。フラーも乗り気だったため簡単にバランスを中心としたコンディショニングをやってみることに。
トラブルも右に出やすく、走りの動きも右の方が少し膝がうちに入るなどの傾向はある。見ただけの段階では「傾向がある」程度に知っておくぐらいで「これが問題だ」と決めつけることはしない。
いざ動きを見てみるとバランスの悪さや一つ一つの関節の機能に関しても反対足の左に多くある。何に関して問題があるのか、この点が大切で、一概に右が左が全部悪いということではない。
英語には慣れてきたとはいえ、日本語と比べれば自分が使える語彙は少ない。
そのためよりシンプルな言葉でポイントを伝える必要がある。
フラーの場合は左足で立つ時にお腹周りの力を抜いてしまう癖がある。それにより軸が安定しないのがまず取り組める点だった。
腹圧を高める、その状態で立ってみる。その点を意識するだけでもだいぶ安定感が出てきた。本人も、そしてそれを見ていたひとみさん、グレッグにもはっきり分かる形で変化でた。
もちろんこれで怪我がなくなるとか、すべて解決というわけではない。怪我の要因になるもの他にも色々あり複雑だ。
これがすべてじゃないが、対策のスタートとしてはいい。
そのくらいに理解してもらえればと思う。
ここ1週間では一番快適な睡眠と言っていいほどよく寝れた。
睡眠の質は朝起きた時の気分が一番の指標になる。
グレッグは仕事に出かけ、フラーは学校へ行く。現在は試験期間中。高校も最終学年となったフラーは進路のことなど色々と大変な時期だ。アメリカの大学からもいくつかスカウトがきているみたいだが。
アメリカの大学でもオーストラリア選手の活躍は目立つとことがある。しかしアメリカに行ってトップに出てくるのは一握りで人知れずに途中で競技を辞めていく学生の方が多いそうだ。
輝かしいものは表に出て、その他の部分は見えてこない。
アメリカの、と最初につければ何か特別感があるように思えてしまうのも不思議なものだ。
午前中はゆっくり過ごす。ひとみさんが昼ごはんを作ってくれた。
「昨日はフラーが成長したなって部分が見れました」
今まではトレーニングやリハビリに行っても何となく言われたことをやるだけだったそう。
自分の学生の頃を振り返るとほとんどそうだったのだが、
トレーニングだけでなく、ここ最近は何かをやるときに自分の中に知識を落とし込んでいるのが側から見ていて分かる時があるそうだ。
昨日のトレーニングではまさにその様子が見てとれたという。
取り組み対する本人の意識が変わる。
指示を出せば身体を動かすことはできる。ただ相手の心を動かそうと思うと、相手にまずは受け入れてもらわないといけない。
やっぱり指導をやっていて、自分の取り組みを受け入れてもらえるというほどの喜びはない。
今日もやってほしいということで夕方にもう一度やることに。
「フラーの友人のベッキーも誘ってみていいですか?」
「大丈夫ですよ」と一言。
昼過ぎにはシドニーの街で友人のハリーと久々に再会する。
自分が今までで会った中で1番の変わったランナーだ。ある時あえば走るのをすっかり辞めていて、ある時会えば国の代表で世界大会に出場している。
10kmのタイムでいうなら27分台から37分台までの状態のハリーに出会ったことがある。
消えてはまた突如と現れる。不思議なランナー、ハリー・サマーズ。
彼を知ってる人なら共通の認識となっている。
13時半にオペラハウス前に。
そのような約束で待ち合わせたが、彼が予定通りに来るとは思っていない。彼が13時半と言えば13時半から14時の間くらいに思っておくのが無難だ。
「あと10分くらい」
そう連絡が来たのは13時40分のこと。
うん、想定範囲内。
どこから来るか見渡すがそれらしき人物はいない。
すると「Hi, mate. Nice to see you」
一発でこいつは走ってないなと理解する体つきになったハリーが現れた。
聞くまでもないが、一応「今は走ってんの?」
「No」
でもパークランくらいからまた走り始めようと考えてはいるそうだ。
カフェに入り、会話が弾む。走ってないとはいえやはりこれまでランニングに携わってきた二人の話題はランニングだ。
2020年、コロナ禍になる前まではイタリア人名コーチのもとでケニアでトレーニングを積んでいたハリー。ケニアでの生活、ケニア人ランナーの現状、世界トップクラスのハードな練習。聞いてるだけで大変さが伝わる。
「で、今何してるの?」
「Ice Bathって知ってる?」
「なんだそれは?」
「練習終わった後に冷たい水に入ってアイシングしたことあるだろ。氷を運んで容器の中の水を冷やすのさ。そこに人が入れるようにするサービスをしてるんだ。要は氷の配達さ。」
そんなものに需要があるのか疑問に思ったが、スポーツ関連だけでなく、パーティー会場からの依頼もありそれなりに儲けているらしい。
いいと思ったらやってみる。そこに将来性があるのかどうかなど難しいこと、やってみないことには確かめようのないことは考えない。それがハリー・サマーズなのだろう。
彼と過ごすとちょっとした自分の不安がちっぽけに思うことがある。
このままでいいのだろうか、この道を進んでいいのだろうか。そんな悩みがある時もハリーと話しているとまぁ大丈夫さ、という気にさせられる。
だいぶ変わってはいるが、彼といて一番学んだことは「自分がいいと思ったらやれ」ということだろうか。
彼が走っていないのはちょっぴり寂しいが、元気そうなのがわかってよかった。
またどこかで突如とすごい記録で走ってくるかもしれない。
「次会うときは一緒に走れるといいな」
帰り道にひとみさんから連絡が入る。
「ベッキーもぜひコンディショニングを受けたいとのことです。夕食の後にできますか?」
「大丈夫です」と。
クーパー家に戻るとグレッグが自宅で仕事をしていた。
「ハリーはどうだった」
「あれはランナーの体型じゃない」
「Oh~ no」
グレッグもハリーの存在は知っている。
しばらくしてフラーも学校から帰ってきた。
今日はトレッドミルで40分ジョグ。クーパー家は坂の上の地域にあるため平坦な道でのジョグが難しい。一気に坂を下って、上るコースになるので時間がない時は家のトレッドミルで走るようだ。
家のガレージに簡易のジムを作ってある。そこにはトレッドミル、バイク、ダンベルなど十分なものが揃っている。
夕食後にフラーのコンディショニング。ちょうど終わることにベッキーが到着した。
ベッキーとは去年こっちと日本で2度会っている。今日は母親のニキも見たいとのことで一緒に。
クーパー家の簡易ジムでベッキーへのコンディショニング。
関節の動きチェックからストレッチ、エクササイズ指導に入る。フラーが途中から見にきて、ひとみさん、グレッグもきて囲うようにトレーニングの様子を眺める。
運動の説明をする時は場は静まり真剣モードに、ベッキーが苦痛を歪めたり、できない動きにてこずると冗談が飛び場は和やかに。
1回のセッションでできることは限られている。トレーニングとは本来、積み重ねて成果を出すものなので1回しかできない場合には継続してやる人のようなアプローチはできない。
なので解決策の提示ではなく、今の状態のフィードバックとまずできるところの提案くらいだ。
ベッキーも故障を繰り返し、ここ最近は気落ちが落ちていたそうだ。何をやっていいのかわからない、自分のそんな経験をこれまでに多くしてきた。
そんな時に現在地とまず踏み出せる道、を示すことができるだけでも気持ちは大きく違うと思う。
トレーニング後に充実した表情のベッキーの姿を見るとこちらも嬉しくなる。
こちらの心のコンディショニングがされたような感じだ。
ついにシドニー滞在最終日を迎えた。
「また会えてよかった。次来るときも遠慮なく泊まっていきな」
仕事に出発するグレッグと別れを交わす。
フライトは夜のためまだ一日時間がある。
朝食後にニキが昨日のお礼を持ってきてくれた。
「君は太ったほうがいいからチョコレートよ」と冗談混じりに感謝を伝えてくれる。ベッキーは学校があるので来れないがお礼の手紙を書いてくれた。
嬉しいサプライズだ。
シドニー滞在もあと1日。