ダサいファッションについて考えたこと
はじめに
どうもぐっちです。
バイト中に髪を縛っていたら女性と間違われました。確かに目元とかそれっぽいけど、身長で男ってわかって欲しかったです。
さて今回のテーマは、ダサいとはなんなのか、ということです。
ファッションにおいてこの手の議題は欠かせませんよね。みんな大好きです。
人気ファッションユーチューバー、なかむさんの動画にも、ダサいについて解説しているものがあった気がします。
「○○はアリかナシか」「○○はダサい、かっこいい」
ファッションが好きな人も、逆にそうではない人も、みんながこういった情報を知りたがるのかもしれません。
そこで今回は、いちファッション系ライター(笑)の僕が、服を好きになり、服を着ていく中で考えたことをお話ししていきたいと思います。これを読んだ皆さんも、ぜひ一緒に考えてみてください。
「お洒落=かっこいい、可愛い」?
まず、ファッションにおける評価について考えます。
どんな評価の仕方があるでしょうか。
お洒落、かっこいい、可愛い、イカしてる、ダサい、キモい etc......
まあ、いろいろありますよね。ダサいけどかっこいい、キモ可愛いなんて複合技もあり得ますね。キモ可愛いはちょっと違うか?笑
まず思うのは、お洒落とかっこいい、可愛いは必ずしもイコールじゃないってことです。これは服が好きな人なら共感してくれると思います。
お洒落な男の人は、気に入った服を評価する時に、しばしば「かわいい」なんて表現します。女の人じゃなくて男の人ですよ、それも自分の着る服です。どうして「かっこいい」ではなく「かわいい」なのか。この両者の使い分けにはちゃんと意味があります。
「かわいい」は、「かっこいい」が持たない「お洒落」の一要素を表す言葉です。だからその人は、「カッコよくはないけどお洒落」な服を求めているんです。
「かっこいい」も「かわいい」も「お洒落」の形態の一つじゃないですか。ファッションを評価する総合的な価値判断の基準が「お洒落」であり、どう「お洒落」なのかを表現する言葉に、「かっこいい」や「かわいい」が存在します。
必要条件と十分条件の違いです。かっこいい、かわいい=お洒落ですが、お洒落=かっこいい、かわいいではないということです。
で、「かわいい」服を求めるメンズは、必ずしもファッションにおいて「かっこいい」を追求しているわけではないのです。ここで勘違いして欲しくないのは、「かわいい」を追求しているかどうかはわからないことです。ファッションはコーディネートで決まるので、一つ「かわいい」アイテムを選んだところで、その先には無限のスタイルがあるでしょう。わかるのはあくまで「かっこいい」とはちょっと違うものだということだけです。
というかファッション、服が好きな人はみんなそうだと思います。
みんな、「〇〇でかっこいい」とか「〇〇だけどかっこいい」あるいは「カッコよくないけどなんか素敵」みたいに、複合的だったり相反的だったり、それぞれの求める、一癖ある「お洒落」のスタイルを追求しているんです。単なる「かっこいい」を求める人は割と少数でしょう。
ファッションの本質
なぜ人はそれぞれの「お洒落」を求めるのか。なぜ皆同じでいられないのか。
それは、ファッションが自己表現だからです。
「服装はその人の一番外側の内面である」という言葉があります。
性別や人種や性格や顔や思考や気分や身分、他でもない着るひと本人を表現するのがファッションの本質であると僕は思います。
そこからこんな結論が出ました。
ダサいとは、自己表現をしていないことだと。
正しい自己表現
自己表現は、自分を表現することです。
何かを表現するためには、思考が必要です。何かを表現するために、服を選び、コーディネートを組み立てます。そして思考が伴うことによって、図らずも他人と認識を共有し、あるいは伝えることができます。例えば「あのアニメって面白いよね」って伝わるのは、何か人に説明できる論理的な部分があるからですよね。そうして表現は完成するのです。
ここら辺は芸術と同じですね。例えば音楽には、コード進行があり、演奏テクニックがあり、いろいろな楽器があります。それらは表現のためのツールです。何かを表現したくて、これらのテクニック、いわば理論を使うのです。
そして、ファッションにおいて表現するのはいつでも自分です。
服が引き出してくれるのは自分の魅力です。自分にないものを服が与えてくれることはありません。ファッションで違う人間になれるわけではないんです。
この服を着てカッコよくなった、この服が似合うと思ったのなら、それはあなたの魅力が引き出されただけに過ぎません。服が魅力的なんじゃなくて、あなたが魅力的なんです。
だから逆に、服装と自分が結びついていない人はダサく見えます。
誰かの服装をそのまま真似しただけのものや、好きなアイテム、高いアイテムを合わせただけ、という人はどうあってもお洒落ではありません。服装に自分が全く反映されていないからです。
自分を表現しようとしててもダサいなって感じる人はいますが、それはまだ初心者なだけです。自己表現のマインドを忘れない限り、知識が増え、テクニックも身につき、どんどん洗練されていくので、そのうちカッコよくなっていくんです。
自己表現≠奇抜、派手
自己表現は、奇抜で派手な服装をすることではありません。
例えばミニマリストは、最低限の服しか持たないし、シンプル服装がほとんどでしょう。ですが彼らは、シンプルな生き方、自分のミニマリズム精神をファッションで表現していることになります。だからカッコ良さがあるんです。
シンプルなファッションが誰にでも似合いやすいのは、服装の情報が減って、そのままの自己を表現することにつながっているからです。
本質は変わらない
「ファッションは自己表現」なんて言葉、あまりにもありふれていますよね。
だからこそ疑いたくなるのでしょう、自己表現の時代は終わった、なんて書いてる記事もいくつか見受けられました。
僕はそうは思いません。本質をついているからこそ、いつまでも変わらないし、なくならないと思います。
ファッションが自己表現じゃなくなったとして、みんなが同じ格好をするようになったら、得をするのはスタイルのいいイケメンと美女だけです。そして、世の中の大多数はイケメンでも美女でもないからこそ、ファッションという文化が発展してきたのだと僕は思います。その意味でファッションはイケメンや美女だけのものではありません。
ファッションは自分の魅力を引き出してくれる素晴らしいツールで、それは全ての人のためにあるものなのです。
終わりに
いかがでしたでしょうか。これを読んで参考になったり、いい刺激になっていただけたら幸いです。
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こんな感じで、ファッションに関する理論、着こなしや哲学的テーマ、雑記的な情報も発信していますので、他の記事にも目を通していただけると嬉しいです。
ではまた!