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最初のポルシェはEVだった『ポルシェーその伝説と真実』フェリー・ポルシェ著「その1」

<概要>

ポルシェ創業者の2代目「フェリー・ポルシェ」の自伝で、創業者のフェルディナント(息子も同じフェルディナントという名前ですが著者の方は通称としてフェリーを使用)から、息子のプッチーの時代まで、3代にわたるポルシェ家の自動車にまつわる歴史をフェリー自ら語った著作。

<コメント>

世界中で最も著名な自動車ブランドのひとつともいえる「ポルシェ」ですが、ポルシェ家のルーツはボヘミア(今のチェコ西部)で、ポルシェ家自体はもともとオーストリア人。

ポルシェが設計事務所として独立した際にその拠点をドイツのシュツットガルトにして以降、ポルシェはドイツブランドとしてその名声をほしいままにしたのです。

当時シュツットガルトはメルセデス・ベンツやボッシュなど、自動車関連企業が集積していて自動車設計の商売に都合のよい土地だったのです。結局シュツットガルトはメルセデス・ベンツ、ポルシェ双方の拠点として今でも自動車産業の中心地の一つとして繁栄。

ポルシェ創業者たる、著者の実父フェルディナント・ポルシェは、ダイムラー(メルセデス・ベンツのルーツの一つ)のオーストリア工場の責任者からそのキャリアをスタート。

▪️ポルシェが最初に開発したのは電気自動車

この初代ポルシェが、最初に開発したのはなんと電気自動車。1900年、初代ポルシェは、オーストリアのローネル社で働いていた際「ローネル・ワーゲン」と命名された電気自動車を開発。2.5psを発生する電気モーターが2個、前輪に装着され、直接前輪を駆動。

「ローネル・ワーゲン」本書19頁

ちなみにローネル社は1821年創業の馬車製造商社でオーストリア王室御用達の宮廷馬車メーカー(wiki)。

さらに今の日産自動車のウリともいえるイーパワーの原理は、この時代(1902年)に初代ポルシェが開発。

電気自動車の行動範囲を広げるために初代ポルシェは、28psのメルセデス製ガソリンエンジンによって電気モーターを駆動させたといいます。まさに今のイーパワーの原理そのもの。

そのあとずっと後の第二次世界大戦時。ヒトラーに頼まれて戦車も開発した初代ポルシェですが、これらの戦車もイーパワーの原理を利用。例えば、空冷式ディーゼルエンジンを発電機として発電させ、その電気をキャタピラーの車軸に供給したのです。

*T34型レオパルト戦車(ポルシェタイプ100)の開発について
父の創意工夫によってこの戦車は、・・・”混成動力システム(今でいうハイブリッド)”を持っていた。2基の燃焼式エンジンが、2個の車輪のフランジに装着された発電機を介して、動力を車輪中央部直後に互いにミッドシップで置かれた電気モーターへ供給した。

本書91頁

▪️初代ポルシェとメルセデス・ベンツ

メルセデス・ベンツの始祖の一人、ゴットリープ・ダイムラーは、オーストリアにも工場を進出させるべく、機械工具会社を運営していたオーストリア人フィッシャー兄弟と計画を進め「アウストロ・ダイムラー」を1899年立ち上げ。ところがこの翌年1900年、ゴットリープ・ダイムラー自身が亡くなってしまう。

この結果、アウストロ・ダイムラーの技術部長だったダイムラーの息子、パウロはドイツに急遽帰国。このパウロの後任に初代ポルシェが技術部長に就任。初代ポルシェはこの工場で「マヤ」を開発。


「マヤ」本書21頁

4気筒30psのエンジンを搭載したこのマヤですが、その「マヤ」という名称のエピソードが面白い。

マヤという名はなんとメルセデスの妹の名前。これはどういうことかというと、二人ともオーストリア人の実業家かつ外交官だったエミール・イエリネックの娘さんの名前なのです。

イエリネックはフランスのニースに住み、コートダジュールに住む金持ちにドイツ・オーストリア双方のダイムラー車を販売していたので、ダイムラーにとっては重要なお取引先。その関係でオーストリアのダイムラー「アウストロ・ダイムラー」は新車にイエリネックの末娘の名前である「マヤ」と命名したというわけ。

一方のメルセデスについては、イエリネック自身が輸入し販売したダイムラー車すべてに長女の名前である「メルセデス」と命名して販売。

残念ながら「マヤ」の名称はこの時だけのものでしたが、メルセデスの方は、評判が良かったからなのか、ドイツ本国のダイムラー自体もこのネーミングを利用し、ベンツとの合併後も継続して使用継続。

日本ではメルセデス・ベンツのことを「ベンツ」と読んでいますが、日本以外の国では「メルセデス・ベンツ」は「メルセデス」と呼ばれており、その名は初代ポルシェがダイムラー時代に開発した自動車の名前「マヤ」のお姉さんの名前だったということです。

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