「兵庫の風土」歴史軸としての兵庫⇔神戸。階級軸としての沿線格差?
神戸市含む、神戸ー大阪のいわゆる阪神間のエリアに関しては、関東と違って明確な地域軸があるのではと思われます。
*横軸の神戸に関しては神戸なのか、兵庫なのか。
*縦軸の阪神間に関しては阪神間の三つの鉄道沿線「阪急・JR・阪神」の格差?
アースダイバー的に名付ければ、神戸の横軸は「歴史軸」、阪神間の縦軸は「階級軸」と名付けてもいいかもしれない(大阪については以下参照)。
それではまず横軸の兵庫と神戸の区分について。
⒈歴史軸としての「兵庫⇔新開地⇔神戸」
神戸市は、もともと兵庫港(=兵庫津)と神戸港が合併した街。
「兵庫県」の名称は明治時代はじめ、旧幕府領だった「兵庫津」には明治新政府の役所としてこの地を管轄する兵庫鎮台がおかれていましたが、この役所の名前が裁判所名を経由して、そのまま県の名称になったのでは、と言われています(兵庫県HPより)
本稿を作成するにあたっては、神戸版アースダイバーとも呼ぶべき「神戸スタディーズ」も参照。
⑴「神戸と兵庫」の関係は「横浜と神奈川」の関係に似ている
兵庫県は、古くからの港町だった「兵庫津」の名称を採用し、神戸市は明治以降の新しい港「神戸港」の名称を採用したため、今の兵庫区=兵庫の津は「兵庫県 神戸市 兵庫区」という、ちょっと風変わりな名称になっています。
これは神奈川県も同じで神戸同様、古くからの宿場町だった「神奈川」の名称は県の名称に採用され、市の名称は明治以降の新しい港「横浜」の名称を使用。
したがって兵庫区同様、今の神奈川区=神奈川は「神奈川県 横浜市 神奈川区」という名称。
神戸市の説明では
とのことで、関西における「神戸」、関東における「横浜」の立ち位置がそっくりだというわけです。なので、神戸市=兵庫+神戸、であるのと同様、横浜市=神奈川+横浜、でもあるのです。
⑵江戸時代の兵庫港は重要な物流拠点
江戸時代の兵庫港(=兵庫津)は物流の重要拠点。近代以前は世界中どこでも物流の中心は水運。物流において陸運・空運が中心になるのは産業革命以降、つまり鉄道や飛行機が発明されて以降(日本では明治時代以降)。
近代以前の日本では、街道として徒歩による交通は発達していたものの、大量の荷量を運送する機能としての物流に関しては「水運」が中心。
したがって港は、物流の拠点として私たちが想像する以上に重要な場所。そんな時代において、大阪湾における兵庫港の立ち位置は、和田岬と六甲山が波や風を防いでくれるための当時から天然の良港(兵庫津ミュージアムの展示に詳しい)。
兵庫港は、江戸時代初中期は尼崎藩の領、江戸時代後期は幕府の領で町民が「北浜」「南浜」「岡方」という三つの地域に分かれて統治していたという。
江戸時代初期の大坂は淀川の運ぶ土砂が堆積して水深が浅く、大型の廻船が入港できなかったため、年貢米など大坂への物流は、いったん兵庫津で積み替え、水深の浅い港でも入港できる小型の渡海船で大坂に出港したらしい。
その後、大阪港でも浚渫の技術が発展したおかげか、大型船の直接荷受けもできるようになり、いったん兵庫の津は衰退しますが、播磨の塩や醤油、米などの物流拠点として復活。
さらに江戸末期には、北海道函館&北方領土を開発した高田屋嘉兵衛が活躍(詳細は以下)。高田屋のほか、兵庫の津を牛耳ったのは、姫路城を戊辰戦争から救った北風家の北風正造や工楽松右衛門。
⑶神戸と兵庫を分ける「湊川」という「俗」
神戸と兵庫を分つのは旧湊川。もともと兵庫と神戸を分断する川で、神戸を流れる他の川と同様、天井川。天井川というのは、川の水面が周りの土地よりも高い川のこと。
この旧湊川、以下明治43年の古地図をみると、六甲の土砂を運んで河口が突出した地形を形成。これはカスプ状(尖状)三角州と言われていて、東のお隣の旧生田川(現フラワーロード)も同じ形状。
旧湊川は、他の六甲から流れる川同様、急勾配の川なので雨が降ると土砂が一気に流れやすく、幾多の土砂災害を引き起こしていたため、1901年に現在の西側に大きく迂回する経路に付け替え。これが現湊川。
同時に旧湊川は、陸地化して再開発の対象になり、神戸一の歓楽街「新開地」に。この新開地、かつては「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるぐらいの繁華街だったのですが、今は三宮にその地位を奪われ、すっかり廃れてしまいましたが、かつての繁華街の面影を感じつつ下町風情は残っています。
新開地お隣の福原遊郭(今の風俗街)は、1872年(明治5年)、前述の兵庫津豪商の北風正造が主導した神戸駅敷設に伴って、今の場所に移転したのですが、陸地化される前は水害と隣り合わせの危険地帯の場所。
一般に繁華街は、芸能が葬儀の儀式の一環で発展したために、キワの地が多かったり、聖俗裏表をなす、浅草や伊勢、大阪の四天王寺など門前町の「聖」として神社仏閣、「俗」としての機能(繁華街)として発展するのですが、神戸の場合は旧市街と新市街のキワの地に発展したという興味深い歴史。
実際に新開地商店街に伺うと、ちょっと他では見られないような激安なうどん屋(かけうどん200円!)があるなど、
その街の雰囲気も下町らしい、俗な匂いがプンプンして、やはりおしゃれな神戸とは一線を画す興味深い場所となっています。
⒉階級軸としての阪神間:沿線格差?
阪神間は、山側が「阪急神戸線」、中間が「JR東海道本線」、海側が「阪神本線」ごとに地域間格差があるという噂をよく聞きます。これって本当にあるんでしょうか?
私の知り合いや現地の方と話していると、直接的にではないにしても、阪神間は「六甲山の上に行けば行くほど高級になる」という感じの発言が、よく出てきます。
中でも面白かったのは
「うちの庭の裏には、イノシシがよくやってくるんだよね」
というのがあって、つまり自宅が山の上の方で高級なんでイノシシがよく出る、ということを彼は言いたかったのかな、と想像。
前にここで取り上げた超高級住宅街「旧住吉村」も全国的に有名な高級住宅街、芦屋市「六麓荘町」も阪急沿線の坂の上にある住宅街です。眺望も良くて快適なんですが、原則山の上の方に行けば行くほど坂の傾斜がきつくなるので、歩くのがタイヘンな住宅街。
朝、駅に向かうのはいいのですが、帰宅して駅から激坂を登っていくのは本当にキツそう。もちろん車通勤や運転手付きの金持ちなら関係ありませんが。。。。
さて沿線格差について、書籍やネット等でも調べてみましたが、意外にこの件の情報は少ない。chatGTPでは以下回答。
とのことで、沿線別格差はどうやらファジーな事実という程度か。
個人的に路線価について東灘区や中央区、芦屋市を対象に調べてみたら、確かになんとなく阪急沿線の山の手側の高台の方が地価が高いように感じるのですが、阪神沿線のベイエリアと比較してもそれほど大きく違うようではない。むしろ駅近のところが路線価が高いという、常識的な地価の違い。
特に中央区は、海岸沿いには旧居留地があってその辺りはめちゃくちゃ路線価が高い。
芦屋市に関してもやはり駅近が路線価が高くて、阪急の芦屋川駅方面の方が特別に高いという印象はありません。実際に自転車で走ってみても、芦屋市の海岸側は埋立地で上品なニュータウンという印象で、坂の上に行けば行くほど建物が古くなる、という印象。
その他の地区も鉄道三線、それぞれ乗ってみたり、実際に自転車で走ってみたりしたのですが、おおよそ印象は芦屋市の印象と同じで、海岸沿いのベイエリアは、ニュータウンのファミリー層で、坂を登れば登るほど、高齢者の多そうな古い住宅街、というイメージ。
たぶん昔から言われる沿線格差は、かつての戦後の高度経済成長時代に阪神間の工業地帯で低賃金の労働者が増え、阪神沿線の住民がそのような労働者中心のエリアになったことが大きいのでは、と思われます。
その後1970年代以降、高度成長時代が終わり、労働者の就業先も製造業からサービス業に大きくシフトし、勤務先が阪神工業地帯から大阪・神戸の商業・ビジネス地区にかわり、その労働者が新しく開発されたベイエリアの住宅街=ニュータウンに住むようになった、ということなのかもしれません。
その結果、貧困層も大きく減少。依然として新開地や兵庫区の海岸沿いに工場労働者っぽい街並みがわずかに残存しているものの、阪神大震災の影響もあって年代の古い建物は激減して今のような状況になったのかもしれません。