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教科書とは異なる日本史「日本史の論点」書評
<概要>
中公新書の記念すべき2,500点目にして初の中公新書編集部が編集した新書。古代から現代まで、各時代の専門家が最新の研究成果に基づき、論点となっている史実について解説した著作
(中公新書HPより)
<コメント>
以下磯田さんの書評に触発されて読んでみました。まさに磯田さんの言う通り、歴史は自然科学と同じように、新しい史料や遺跡の発見を契機に不断に新しい説が登場してくるというまさに「生きている学問」。
まずは古代編。素人レベルで「そうだったのか」と思ったのは以下の論点。
■古代(倉本一宏著)
【邪馬台国はどこにあったのか】
邪馬台国は「ヤマトコク」と読むべきであり、卑弥呼はヒメミコ(女王という意味)。中国三国時代(魏呉蜀)、考古学的には日本に一番近かったのは呉が支配していた江南地方ですが、魏が正当とされた中国では呉に関する記録が少なく、呉とより多くの交流があったに違いない列島の政治権力の動向は不明。中国史としては、最も正当たる魏と交流していたのが北部九州の倭国連合(その宗教的代表たる邪馬台国)で、必ずしも邪馬台国が日本の政治権力を代表する組織かどうかは不明らしい。
大和盆地には纏向を王宮とし、日本列島の中心的な権力である倭王権があり、列島には多様な政治権力があったのではという著者の仮説。
【大王(皇統)はどこまでたどれるか】
歴史学的に現段階で皇統が辿れるのは継体天皇(第26代)まで。継体天皇以後の安閑、宣化の2代も謎が多く、欽明になってやっと明確になり、継体天皇以前の皇統は不明。日本書紀で描かれている万世一系の「皇統譜」の成立は6世紀(著者は7世紀)からで、血縁集団も6世紀の欽明の世代までは形成されていなかったらしい。
どの古墳が誰の古墳かは、仁徳天皇陵が大仙陵古墳と名前を変えたように不明な点が多い、というかほとんど特定できていない。宮内庁が治定している行燈山古墳(天理市、4世紀中頃)でさえ、誰の古墳かは不明。宮内庁が調査を認めていないことも学問的に解明できない理由らしい。宮内庁にとっては、学問によって天皇家の実体が暴かれるのは、恐れ多いことなのかもしれません。
個人的には神話と歴史学は個別に考えるべきもの。神話は神話として天皇の伝統を語ってもいいのではと思ってます。歴史学上どうであれ、です。
問題なのは、神話も歴史として位置付けてしまうこと。神話は「神話という一つの物語=虚構」として尊重すべきもの。
歴史学は、人文科学という神話とは別の物語=虚構として認識すべき。個別の物語を勝手に統合してはいけません。
*写真:2021年 春 皇居外苑