「栃木の風土」概要編:栃木県は斜めにくだる
⒈栃木県は「下野軸」と二つの水系で形成
栃木県を周遊すると、実感するのが「西北から東南に斜めに下る軸」です。下の図的には、左(西)から右(東)に向かって標高が下がっていく地形。ここではわかりやすくこの軸を「下野軸」と呼んでみます。
更に宇都宮を中心とする南部(下毛野=利根川水系)と、那須を中心とする北部(那須=那珂川水系)に自然環境的にも文化圏的にも大きく分かれているのが特徴。
下野軸は、日光や白根山山系から斜めに西に向かって標高が下がっていく地形なので、各種河川もすべて南東に向かって流れていく水系になっています。
▪️栃木県(下野国)=下毛野+那須
栃木県は、大きく喜連川丘陵を境に、下毛野国と那須国に分かれていましたが、実際に自転車で栃木県を周遊してみると、文化圏的に大きく下毛野(南部)と那須に分かれていることを実感します。
気候的にも地形的にもだいぶ異なっていて、しかも水系も、下毛野は利根川水系(利根川東遷前は、利根川・鬼怒川水系)、
那須は那珂川水系。江戸時代までは水運が物流の主流だったわけだから、水系ごとに文化圏が異なっているのも理解できます。
⑴下毛野(南部)
①下毛野は、男体山を中心とする世界
男体山が御神体となっているように、下毛野は、男体山を頂点として南東に下っていく軸で、地勢が成り立っています。
男体山は、その名称が、補陀洛山→二荒山→日光山と変遷してきたことが象徴するように、修験者たる勝道上人(735-817年)が普及させた御神体で、修験道の聖地として長らく修験道者たち含む下毛野の人々に慕われていた聖なる山です。
つまり下毛野は、御神体たる男体山を頂点として繁栄してきた土地。その平野部の中心「宇都宮(一ノ宮)」に男体山を祀る二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)を擁し、この地の古くからの有力豪族「宇都宮家」が聖俗合体の権力者として長期間支配。
ところが徳川家康が秀吉に命令されて江戸にやってきて以降、この地は江戸の北に位置することから新たな位置付けを与えられ、修験の聖なる地から、徳川家康を神格化した神仏習合の東照大権現という新たな御神体が江戸を守護する実体としての位置付けに変容したのです。
更に明治以降、神仏分離令→廃仏毀釈によって東照大権現は蔑ろにされ、天皇の祖先を神とする国家神道としての新たな位置付けが与えられる。
とはいえ、東照大権現の威光は現在も燦然と輝いており、関東における一大観光地として地元に貢献し続けているのは確かです。
実際に日光から宇都宮にかけて自転車で走ってみると、県境の金精峠から宇都宮に向かってずっと街道が見事に下り道になっているのです。それは見事というしかない。
②下毛野軸に沿って流れる川ごとに街が形成
下毛野に展開する街は、それぞれの母なる川によってその繁栄が築かれています。これらはみな利根川水系で、うち渡良瀬川・思川・巴波川は、渡良瀬遊水池を経由して利根川とつながることで、下流にある首都圏の洪水や、かつての足尾銅山の鉱毒の防波堤となっています。
③宇都宮市は東北並みに冬が寒い
栃木県の各主要地域の気候を気象庁の過去データで調べてみると、なんと宇都宮市の冬は相当に寒い。夏は東京並みに暑いのに、冬は那須高原よりも寒い。
さらに冬日(1日に最低気温が0℃未満)の長さを比較すると、なんと宇都宮市の冬日は年79.7日と、仙台市(70.3日)や福島市(71.6日)よりも長い。
ところが小山市まで南下すると冬の寒さはだいぶ和らぐので、冬はだいぶ住みやすくなる一方、この辺りは猛暑エリアでもあるので、気候的には相当に厳しい県ではあります。
⑵那須(北部)
那須は、もともと那珂川と箒川が合流するあたり、つまり大田原市南部から那珂川町北部のあたりが中心地でした。今でもこの辺りには巨大な前方後方古墳(下侍塚古墳など)があり、
南方の前方後円墳(笹塚古墳など)とは異なる文化圏だったことがその古墳の形態からも窺えます。
①トップダウンで開発された那須野が原
その後、時は下って明治時代になると仕事や収入のなくなった士族たちの救済という目的の一環もあって、那須野が原が明治維新政府によって開発されます。
那須野が原は、江戸時代まで作物の育たない不毛の地として長く未開発の地でした。というのも那須山系の複数の河川が形成した巨大な複合扇状地は、川が水無川(熊川、蛇尾川など)として伏流水が地下に流れてしまう水不足の地。
しかも石ころだらけの砂礫層で米などの穀物が育ちにくい地質だったのです。
その那須野が原が、開拓候補地として明治政府による官有地となり、西洋風の牧羊地候補地として千葉の下総台地とともに候補地となります。
この結果、総理大臣を歴任した松方正義(1835-1924)や西郷隆盛の弟、西郷従道(1843-1902)などの政府有力者たちがこぞって開拓に乗り出すなど、維新政府トップダウンによる開発が進み、これらの農場は「華族農場」とのちに呼ばれるようになります。
私たちが観光で利用している千本松農場(松方家)や青木農場(青木家)などはその名残。
②ボトムアップで整備された那須疏水
更に地元民の嘆願によって那須疏水が整備され、灌漑用水の普及によって牧畜はもちろん戦後は農地として土地改良されて、今のような那須の風景が成立。
以上の経緯で国有地も多く、前回紹介したように首都機能移転の候補地として那須は、その検討の俎上に上がったのです。
③宮内庁が出入りする「近代の高貴」としての那須
更に宮内庁の那須御用邸設置によって、高根町の御料牧場など宮内庁関連の施設も豊富になり、宮内庁が闊歩するエリアとして那須地域については警察も特別の配慮をしているらしい。
そういえば皇族たちも夏になると決まって那須御用邸に滞在しているよう(コロナ期間は除く)。
そんな「近代の高貴」を醸成したのが那須というエリアだから、なんとなく西洋風高級リゾートとしての雰囲気があって、バブル時には別荘地として大量に土地が売却される。
私の周辺でも那須に土地を持っているというご高齢の方々が多くいるというのも因果なものです(今となっては供給過多でなかなか売れないらしい)。
なお、益子町には、今の上皇陛下が奥日光で終戦の玉音放送を聴いたという南間ホテルの建物と部屋が移築されており、私たちも宿泊できる施設になっています。
*写真:宇都宮市:古峰神社の天狗のお面。
天狗は人と神の中間的な存在として、時には荒ぶる神となり、時には神の使いとして恩寵をもたらすという存在。