意外に自由だった江戸時代「日本史の論点」
「日本史の論点」中公新書編より
今回は、鎌倉時代から江戸時代までの日本史の論点。特に江戸時代の論点が面白い。
■中世(今谷明著)
【元寇勝利の理由は神風なのか】
文永の役(1274年)は、今の暦に換算すると11月26日で台風の季節ではありません。一方で日本海は冬は荒れるので、戦は長期戦は無理。10日間ほど日本と戦って決着がつかなかったため、海が荒れる前に退散したそうです。
弘安の役(1279年)では、日本側の水際対策は万全で、博多湾沿いに石造の防塁、潟には乱杭をうち、蒙古軍は博多湾から上陸できず、致し方なく志賀島に上陸したものの撃退されて、1ヶ月間ほど滞留。
そのうちに台風が来て(8月22日)撤退したというから、元々撤退せざるを得ない状況下、台風がきっかけとなったわけで「台風そのものが直接的原因ではない」というのが今の学説だそうです。
世界最強の蒙古軍も撤退させるほど、日本の武士はグローバル的視点でみても防御に優れていたのです。
■近世(大石学著)
【近世は、近代】
著者によれば、近世=江戸時代は近代の萌芽となった時代であり、「近代」といってもよいとの主張。
なぜなら、
初めて日本列島規模の国家システムが出来上がった時代
だから。
戸籍も幕府が統一的に把握し、藩(武士)はもちろん、天皇、公家なども江戸幕府下の一つの秩序・機構して編成され、幕府が列島全体を完全にコントロールしていた時代。
大名は立場が弱く、藩内で一揆が起きようものなら取り潰されるのは藩の方なので、農民ともうまく合意を取り付けながら運営する必要があったそう。
参勤交代は、藩の力を疲弊させる目的なのはその通りですが、そもそも藩主が領地に帰りたがらなかったそう。都会育ちの彼らが何もない田舎に帰りたがらなかったというのです。藩の方も、大名が国元に帰らなくても国家老以下の官僚が運営しているので何ら問題はなかったそう。
【江戸時代の身分制度と個人の自由はリンクしていない】
面白いのは江戸時代は意外に自由で、農家の次男三男は江戸に出て町民になり町人はお金を稼いで侍株を買って侍になり、農家の子が武士の家に養子に入ることもあって
身分としての「家」はしっかり固定されていたものの「家」のなかの個人は比較的自由だったのだ。武家や農家は、いつまでたっても武家や農家であったが、それは家の話であり、個人の話ではない。江戸時代はすでに個人レベルにおいて身分的移動、地域間移動が行われるフレキシブルな社会
「家の存続は血縁であるべき」というしがらみも、ほとんどなかったらしい。世継ぎがいても優秀でないとみれば、容易に優秀な子供を養子にして家を継がせたりすることは当たり前のように行っていたらしい。
以上、中世・近代においても、私が習った日本史とは全く印象が違います。「過去そのもの」は変化しませんが、新しい史料と解釈によって「過去の認識」はどんどん変わるのです。
*写真:2021年 日比谷 帝国ホテル