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紀州が育んだ銚子の風土

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今に至る銚子は、もともと飯沼観音の門前町でしたが、江戸時代に紀州(和歌山)の人たちが移住して醤油や漁業で発展した街です。

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*妙見寺:紀国人移住碑

そんな銚子の興味深い風土を紹介します。

銚子を勉強しているうちに、いてもたってもいられなくなって日帰りで訪ねましたので、写真も併せて紹介します。

◼️銚子の地形
房総半島の大半は、6,600万年前よりも新しい古第三紀の柔らかい地層でできています。

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*屏風ヶ浦:上層の茶色い部分が関東ローム層(6万年前ー1万年前)

中でも付加体の蓄積によって成立した日本列島のうち、たまたま1億年以上前の古くて硬い地層でできた土地が銚子辺りにあったので、海や川に侵食されず、半島として突き出ているところがポイントです(千葉のトリセツ26ー27頁)。

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*長崎鼻・宝満:恐竜時代(ジュラ紀:1.5億年前!!)の泥岩・砂岩

◼️好漁場の銚子近海
突き出た半島のおかげで黒潮を妨げ、北からの親潮とぶつかって良好な漁場を生んだといいます。以下のストーリー。

①海側に突き出た硬い地
②海流を分断
③暖流(黒潮)と寒流(親潮)の衝突
④利根川がもたらす陸地からの栄養(窒素・リンなど)の供給
⑤植物プランクトン の発生による食物連鎖の増大=各種魚類の大量発生
⑥先進漁師たち(紀州の人)が黒潮に乗って到来
⑤漁業の繁栄


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*外川港↑

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*銚子電鉄 外川駅構内↑

今、NHK BSで再放送中の朝ドラ「澪つくし」では、ぬれ煎餅でも有名な銚子電鉄に乗って、外川の漁師町に遊びに行く沢口靖子演じる主人公「かをる」。銚子半島の南にある外川は、紀州の漁師が移住して誕生した漁村です。

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化学肥料が発明されるまで、外川の漁師が獲ってきたイワシは肥料として干鰯(ほしか)と呼ばれ、高く売れたといいます。

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*坂にできた外川の街並み↑

今では、魚を貯蔵する冷凍倉庫も充実し、全国各地から漁船が集まることもあって日本一の漁港としての地位を確立しています。

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*銚子漁港:宮崎県からの漁船も停泊↑

◼️究極の海洋性気候
海から突き出た半島のおかげで温度の変化の影響を受けにくい海が周囲を囲んでいる上に寒流と暖流がぶつかることによって、年間・日中双方とも寒暖差の少ない究極の海洋性気候の気候を生みます。以下のストーリー。

①海側に突き出た硬い地層
②海洋に囲まれた半島
③海洋による陸地の寒暖差の抑制
④寒流がもたらす寒気、暖流がもたらす暖気双方の混合
⑤日中・年間寒暖差が少ない究極の海洋性気候

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◼️醤油工場の繁栄
「紀州人がいたこと」「日中・年間寒暖差が少ないこと」に加え、「原材料の産地が隣接していたこと」「江戸時代の水運発達のお蔭で江戸への供給が容易」だったことなどの好条件によって醤油の生産が栄えました。以下のストーリー。

①日中・年間寒暖差が少ない安定した気温
②麹菌・酵母など微生物が順調に生育する環境
③地元生産に加え紀州人がもたらした技術のノウハウ(醤油のルーツは紀州)
④原材料産地が近い(下総・常陸の大豆・小麦、行徳の塩)
⑤利根川東遷(幕府による利根川の東京湾→太平洋への移動)による水運の発達
⑥調達(原材料)と運送(製品)双方の物流コスト低減
⑦醤油生産の繁栄

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*ヒゲタ醤油(こちらは銚子ネイティブ)

この突き出た半島に、黒潮に乗ってやってきた紀州人が、醤油と漁業を銚子にもたらしたというわけです。

安房(あわ)の国も阿波(あわ)の国(徳島)から黒潮に乗って移住してきたという説もある通り、千葉県は黒潮に乗って西で育った文化がたどり着いた地域でもあります。

例えば、ヤマサ醤油の創業家濱口家は、外川の漁民に勧められて醤油の発祥地、紀州から銚子にやってきたともいいます。

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朝ドラのヒロイン、かをるは、醤油会社「入兆」のオーナー坂東久兵衛の妾、加賀まりこ演じる古川るりの子。坂東久兵衛は紀州に本家があり、工場のある出張先の銚子に妾を囲って生まれたのが「かをる」です。

◼️災害の多い地域
①津波
外洋に突き出た特徴から、地震による津波の影響も多かったといいます。何度も津波に襲われ、東日本大震災でも銚子マリーナが壊滅するなど、今でもその傷跡が残っています。

②海難事故
銚子沖は海流がぶつかり、利根川からも水が流れてくるので潮の流れは複雑怪奇となり、海難事故が後をたたなかったらしい。

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塔によせて
 幾千年 海の幸をまもり伝えるには 多くの同胞の努力と犠牲が繰り返され た
この丘は この沖のその人達に感謝 を捧げ 安らけき冥福を祈るしるしの 塚である
 雨にも風にも 想いは絶えず 新しい悲しみが加えられることは 更に絶 え難いことである
 人の命の尊きは何ものにもかえられ ぬもの この悲しみを繰り返さぬよう 念じ 有志が相寄り相扶けて 慰霊の塔が建立された
 大らかな慈母なる海に抱かれ 明る く朗らかに働く人達に幸あれ と 万腔の希いをこめて
 昭和三十五年七月二十日
 坂本庄三郎 

漁師たちは、命懸けで漁に向かいつつ、多くの漁師たちが海に飲み込まれていったといいます。

また、その命を守るべく、醤油生産の親玉だったヤマサ醤油の濱口家は醤油で成した財産を惜しみなく漁港の近代化の注ぎ込み、今に至る銚子漁業の繁栄をさせたと言いますから、醤油と漁業は相互に補完しながら発展したとも言えます。

③洪水
徳川家は、秀吉による関東転封により、江戸を拠点にするが江戸は関東平野一帯の水が東京湾に流れ込むエリアでとても人が住めるような場所ではありませんでした。

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湿地干拓による土地の増大、江戸の洪水からの防御、太平洋からの水運開発などの目的のため、いくつかの大河川のうちの一つ、利根川を直接太平洋に流して常陸川(現在の利根川下流域)に接続させるべく60年かけて大工事を完遂(利根川東遷という)。この結果、常陸川+旧利根川=新利根川は、水量が増幅し、銚子エリアで洪水が増える結果となってしまいました。

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このように、銚子はその特徴的な立地によって人が集積し、風土を育んだことがよくわかります。

かつては千葉市に次ぐ人口を誇った銚子も、現在はすっかり寂れた印象でしたが、地質学的にも文化的にも非常に興味深い土地でした。



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