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「滋賀の風土」甲賀流忍者の実像
自治の強い滋賀県の風土として、前回は天台宗の二つの寺(比叡山延暦寺vs三井寺=園城寺)の抗争を紹介しましたが、今回はその一つとしての甲賀忍者、というか甲賀武士(侍衆?)を紹介。
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参考図書はいつもの『滋賀県の歴史』に加え、藤田和敏著『甲賀忍者の実像』『忍者の里を旅する』、甲賀武士の末裔、藤田俊経による『甲賀忍者の真実』など。
⒈忍者とは?
「忍者」という言葉が、一般的に使われるようになったのは昭和30年代。当時司馬遼太郎や山田風太郎などの時代小説が流行り、そのブームの一環として「忍者」という言葉が浸透。
30ー40代の人であれば「忍者ハットリくん」、私のような50−60代であればなんといっても「仮面の忍者 赤影」でしょう。「ガッテンガッテン承知!」という決まり文句の青影が懐かしい人も多いと思います。ちなみに今調べると「赤影」の敵は甲賀忍者だったんですね。これもびっくり。
さらに「忍者」という言葉は、それまでは「忍びの者」だとか単に「忍び」と呼ばれていたそうですから、忍者とは戦後の日本エンターテインメントが生んだ「世界的キャラクター」だともいえます。
また、黒装束を着てさまざまな超人的身体能力を保持しつつ、特殊なツールを使って魔法的な技をみせるという、世界中に広まった「忍術」は、江戸時代後期の歌舞伎や浮世絵の世界の中で作られたそう。
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昨年(2023年)訪問した「伊賀流忍者博物館」によれば、歴史上の忍者とは敵方の情報をいかに正確にはやく主君に伝えるか、が仕事だったので、その一環として今でいう「忍術」を身に付けたのだとか。
「情報を伝えるためにはいかに生き残って主君のもとに帰られるか」がキモなわけだから生きて逃げおおせるためのさまざまな術=忍術を身につけたということでしょう。
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その忍術が、忍者固有の超人的能力や魔法・手裏剣などのツールとして誇大に江戸時代の演劇や浮世絵で表現されたというのが、どうやら今の忍者のルーツのようです。
武将のために働く忍者にとって最も重要なことは、敵方の状況を主君に伝えるために、極力戦闘を避けて生き延びて帰ってくることだった。そのため忍者は自ら攻撃を仕掛けることはなく、自分を守るための忍術しか使わなかたっといわれる。
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⒉伊賀甲賀忍者は「琵琶湖の賜物」
そんな忍者ですが、実は忍者の誕生には琵琶湖が大きく関わっているとか。
甲賀は、隣の伊賀同様、地理的には独特の地形。これはかつて琵琶湖がこの辺りにあったからで、この時の琵琶湖を古琵琶湖という。
江戸城や大坂城含め、基本的にお城は防御上の観点から台地や丘陵の先端に造られます。
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杣谷と呼ばれる伊賀から甲賀にかけての地域は、約200万-450万年前にこの地にあった古琵琶湖の湖底にたまった粘土質層で覆われています。
この粘土層がその後、徐々に隆起&侵食によって台地や丘陵と谷が交互に細かく連続する独特の地形=「無従谷(むじゅうこく)」を形成。
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この無数に展開する台地や丘陵の先端に小さなお城が無数に造られたため、伊賀・甲賀には中小の無数の武家=侍衆が誕生したというわけです。
その主たる特に甲賀武士は、大きく分けると貴族をルーツとする者(美濃部氏=菅原道真の一族、多羅尾氏=近衛家)、若干の都の血が入っていそうな者(佐治氏=平家、伴氏・大原氏=大伴氏、和田氏=源氏)、農民から成り上がった者(山中氏、望月氏)などに分けられますが、どの家も南北朝騒乱期に武士化したという。
また甲賀地方では、室町時代のときの南近江の権力者「六角氏」が、当時甲賀武士の自治を黙認したというのも大きいようです。
(室町時代)村々では「同名中惣(同名中とも)」称する組織を構成する指導的農民層でもある小領主・地侍層にムラの運営を任せる自治組織が発達し、戦国末期には郡レベルでの自治を行う「甲賀郡中惣」をも成立させるのであるが、六角氏はこれを黙認するのである。地頭を厳しく取り立てに追い立てるような言動を甲賀ではおこなっていない。
このように、小領主や地侍(=侍衆という)をリーダーに丘陵や谷で細かく分断された集落が、個別に強力な自治権・自衛権を形成。これら中小の集団はのちに「同名中」と呼ばれ、のちに伊賀甲賀忍者と呼ばれた「忍び」のルーツとなるのです。
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⒊忍術は「修験道」がルーツ
そんな彼らですが、彼らが用いた忍術の発祥はというと、どうやら修験道からのようです。今でも甲賀地方では製薬業(近江製薬・塩野義製薬工場・キョーリン製薬工場等)が盛んですが、この辺りも修験道の伝統が絡んでいるのではないでしょうか?
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修験道は、熊野や吉野・大峰山などの修験の中心地はあまりにも京都から遠いため、京都近隣の修験の地としての甲賀地方の飯道山での修験が盛んに。
一方で比叡山を拠点とする天台宗が、密教化と神仏習合によって修験とも深く結びつくようになり、天台宗が盛んな甲賀地方でも天台宗の寺は、すっかり修験を取り込んだ神仏習合化して地元の油日神社や矢川神社の神主も天台宗の住職が兼務するようになったらしい。
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飯道山の修験者=山伏もそのほとんどが天台宗の僧侶と一体化し、さらに山伏が全国行脚する中で身につけた自己防衛としての武術とも融合しつつ、修験者の「火薬の調合」含めたさまざまな「技」が製薬や忍術のルーツになったのではないか、と言われているのです。
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⒋甲賀出身の戦国大名
下剋上の戦国大名には、甲賀武士出身の大名も複数存在していたというのも面白い。
⑴滝川一益
織田信長の四天王の一人といわれた滝川一益。甲賀出身の武士で、甲賀地方が室町時代以降優秀な武士の輩出地として日本全国に被官したうちの一人。
堺で鉄砲の技を身につけ、長島一向一揆や一向宗との石山合戦で実績を上げ、甲斐武田家を滅ぼしたその張本人ですが、織田信長の死後、ライバルの秀吉との後継者競争に敗れて出家しつつ、秀吉の部下としてほぞぼそと生きながらえます。
⑵池田恒興・輝政
関ヶ原の戦いの後に姫路城の城主になった池田輝政やその父で織田信長配下の有力武将池田恒興は甲賀武士の子孫。恒興の父「池田恒利」が甲賀武士で池田家は上の滝川家とも姻戚で甲賀出身の戦国武将の一人と言われています。
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⒌江戸時代に厚遇された甲賀武士
江戸時代には「神君伊賀越え(1582年)」においては伊賀よりも甲賀武士の助力の方が大きかったことから多くの甲賀武士がその対価としての旗本衆に。
というのも、第二次天正伊賀の乱(※1581年)の敗北によって伊賀は廃墟と化し、人材も壊滅状態だったから。
※第二次天正伊賀の乱
第一次天正伊賀の乱での惨敗に激怒した信長が、天正九年(1581年)、安土に諸侯を召集。当時の伊賀国のの人口の半分にあたる五万弱の兵を率いて伊賀を侵攻。この時伊賀軍はわずか数千。一カ月間は持ちこたえたものの、人口の半分が死に全域が焦士と化し一切の建造物は壊滅(伊乱記)。
人材豊富な甲賀武士は、伊賀越えに大いに貢献したという経緯から、家康の計らいで旗本に取り立てられたと言うわけです。
小川城に家康一行を匿い無事送り届けた光俊と山岡や和田といった甲賀武士たちは、途中秀吉政権下の20年近くの空白を置いて、関ヶ原の戦いの年、光俊が信楽一体の領地安堵と、長男光太への関西地区徳川領の代官職を受ける。その他の甲賀武士たちも20人近くが前後して旗本として採用される。この数は伊賀一国から採用された旗本の数が10人に見たぬのに比して、近江国12郡の一部でしかない甲賀郡だけで2倍以上の旗本を排出したのである。つまり家康は甲賀武士たちに世話になったことをしっかり覚えていた。
とのことで、家康が恩を受けたことはもちろん、甲賀武士自体の優秀さが彼らの多くをして旗本にしたともいえ、室町時代以来の独自の自治自衛の精神が子々孫々まで行き渡っていたと言うことかもしれません。
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以上、次回は「滋賀の自治の風土その3」として「近江商人」を取り上げたいと思います。