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地理・歴史学

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人の価値観は、外的環境に大きく影響されます。地球全体に関して時間軸・空間軸双方から、どのような環境のもとで我々が今ここにいるのか?解明していきたいと思っています。
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#奈良県の歴史

近代は「神道」、現代は「啓蒙主義」

今回奈良に長期滞在して感じたのは、多数の古墳が宮内庁によって、学問的にはその天皇の墓(陵という)ではないのに(または不明)、勝手に特定の天皇の墓にされてしまっていることです。 [行燈山古墳(宮内庁的には崇神天皇陵):2021年5月。以下同様] こんな不可思議なことが起きるのはなぜなんだろう、と考えると 宮内庁が、 「啓蒙主義の価値観を根拠とした日本国憲法を奉ずる現代に、戦前=近代の明治政府の価値観を持ち込んでしまっているから」 です。 厳密にいうと、私の視点は日本

奈良の風土:奈良府民になった「奈良北部の近現代」

関西には三都といって、大阪・京都・神戸という大都市がありますが、奈良北部は、北に隣接する京都との繋がりはあまり強くなく、むしろ西に隣接する大阪圏の一部として、そのありようを特徴付けました。 (矢田丘陵より生駒山を望む。2021年5月。以下同様) ■近畿日本鉄道(近鉄)が創造したベッドタウン私自身は「千葉都民」といわれている市川市在住の千葉県民なので、奈良県北部在住の方は「奈良府民」といってもよいかもしれません。下表の通り、昼に他都道府県に流出している人口の多い順番は、

奈良の風土:ふつうの国になった「中世の北部」

奈良北部の戦国時代から江戸時代は、興福寺の宗教国家的性格から、ふつうの国家になった時代。 それまでは列島の中心であり宗教独立国家であり、列島の中でも独自の地位を確立していたのですが、戦国時代シャッフルによって「ふつうの国」に落ち着いたということ。最終的には江戸幕府の中央統治体制に組み込まれたのです。 これらは興福寺の支配を少しずつ切り崩していった大和の国人(武家兼僧侶)や町人の勢力拡大や新興宗教勢力の一向宗の吉野川方面からの侵入に始まり、松永久秀の入国や大和の国人出身

奈良の風土:修験道と天皇家に守られた「南部」

吉野川を境にした奈良県南部は、我々が一般にイメージする奈良とは異なる別世界。 古代から近世にかけて、修験道の聖地たる金峯山寺を主とする修験道の聖地「大峰山」や、天皇家から1200年に渡って免租地になった十津川など、歴史的にも興味のつきない地域です。 (吉水神社から金峯山寺を望む:2021年5月。以下同様) ■修験道の聖地地理的には、盆地特有の雨の少ない乾燥した奈良盆地に比して、日本一雨の多い紀伊山地を起点に大量の水をたたえつつ流れる吉野川以南は、奈良盆地に住むヤマト

奈良の風土:北部中世は、興福寺の独立国家

奈良北部(=奈良盆地)の中世(鎌倉時代→安土桃山時代)は、戦国大名が台頭するまでは興福寺が統治する事実上の独立国家でした。 西洋でいえば「教皇領」みたいな存在か。今の興福寺は最高峰の仏像群(阿修羅像・阿吽・銅造仏頭など必見です)を保管しているお寺としてしか存在感がありませんが。。。 (2021年 興福寺伽藍) もともと平城京遷都は、日本の国家体制の礎となった大宝律令(701年)具現化の一環。 (2021年 平城京跡:太極殿) 大宝律令の具現化を目的に →政治体制の整

奈良の風土:概要編

47都道府県を実地検分するにあたり、まずは日本(という政治権力)発祥の地、奈良県を選択。 (奈良公園:2021年5月。以下同様) 奈良県は南都ともいいますが、奈良という名称自体は、山を「なら」した、つまり山を崩して平らにした地域、という意味で「奈良」になったそうです(諸説あり)。多分奈良盆地の古代の区画整理事業(奈良盆地の川も蛇行せず真っ直ぐになっている)から、この名前が誕生したのかもしれません。 (大和川) さて3週間ほど滞在した結果、時間軸と空間軸で、奈良の特徴を

奈良の風土:なぜ奈良盆地の政権が列島を支配できたのか?

「なぜ奈良盆地のヤマト政権が列島を支配できたのか?」 (箸墓古墳:2021年5月、以下同様) に関しては、さまざまな仮説がありますが、気象条件や地形、歴史学関連の各種書籍を読んだ限り、私の仮説としては「海に繋がる盆地だから」ではないかと現時点、思っています。 「海に繋がる盆地」とは、山に囲まれた盆地でありながら、大和川を通じて海=外に繋がっているからという意味です。更に、琵琶湖や伊勢街道を通じて日本海や関東地方ともアクセスしやすい交通の要衝としての立地は、列島を支配する