【妄想考察】妄想と推しと花火の下
2020年5月31日。水樹奈々公式ページで2020年水樹奈々ライブツアー「NANA MIZUKI LIVE RUNNER 2020」の全公演の中止が発表された。僕も含め、ネット、リアルともにファンは「それでも名古屋なら……名古屋ならやってくれる」と縋れると思っていた藁の一片が、実のところ幻であることに気づかされた。
去年の9月、千葉マリンスタジアムで「水樹史上最長ツアー」と銘打たれ発表されただけに、ファンや関係者には衝撃が走っている筈である。
そんな中、本日5月31日19時より動画サイトにて「NANA MIZUKI LIVE PARK2016」が日時限定で配信された。
このLIVE PARK。水樹奈々のライブの中でも特にインパクトのあるライブである。いままでTUBE以外はコンサートを開けなかった、1日限りの甲子園公演。台風後の停滞する気圧による天候不順の中開催され、また開演中もそれが舞台装置であるかのように雨が都合よく止み、また降り出した。そして豪雨の中、短期間で習得したサックスを演奏する水樹奈々本人。天候の影響もあり、午後に物販に並ぶと開演までに入れなかったという話も耳にしていた。(あとは芝生が……といったニュースもあったが、それは詳しい人が考察していると思うので、そちらを参照されたし)
今回の配信、僕も見ていた。当時僕はアイビーシートの屋根が届かない場所にいて、雨合羽が意味をなさないほどずぶ濡れで、隣のカップルと一緒になってのぼせていた。
当時を知る僕の周りにいるファンたちの間では「もう一度甲子園ライブをやっても、あれは越えられない」という声も少なくない。
さてそんなLIVE PARK、アンコールで歌われた恋想花火について、当時打ち上げ(をしていたグループに無理やり混じった席)で聞いた内容が面白かったので僕なりに考察していこうと思う。
事の始まりは打ち上げで酔っぱらった誰かが言った「星空とと恋想花火って対だよね」といった一言だった。
水樹奈々の「花火」が主題の曲で有名なものは
『星空と月と花火の下(2006年)』(※以下「星空と~」)
そして
『恋想花火(2016年)』の2曲。
まぁ花火の曲だしね。女の子の視点が「星空と~」で男の子視点が「恋想花火」でしょ?
そこで話が盛り上がった。
そこでその話は何となく終わり、花火の演出がすごかった、天気がすごかったの話題に切り替わって、話題は次に流れた。
そこで僕は思った。
「これって対というか、1つの話になってるんじゃないか」
そこで他の奈々ファンの意見を差し置いて、勝手に考察を僕は始めたのだ。歌詞を全部そのまま載せてしまうと不味そうなので、全歌詞に関しては各自手にしている機械で調べていただくとして……。
「星空と~」の歌詞から情報を拾うとこんな感じ
・歌の主観である人物「あたし」は「女性」としておく
・『僕たちはもう、自由にならないか』(彼氏?に言われる)
・浴衣を着て腕を組んだり寄り添ったりしていた時期があった
・「特別な気がする」という言葉に浮かれる(程に好意があった)
・だんだんと2人の距離が(精神的・物理的に)遠ざかって、最後の方は喧嘩ばかりしていた
・物語は2人が別れてから暫くの時間経過がある
・歌の舞台での現代、「あたし」は吹っ切れている(強がっているという見方もあるがここでは吹っ切れていると仮定する)
・花火を見て「あたし」は「君」を思い出すくらいはできる
続いて「恋想花火」
・主観となるのは「僕」。これも男としておく
・夏の終わりに夕暮れに「君」と待ち合わせ
・改札口を過ぎたらさよならすることになる
・「君」はおどけて笑う
・「いつもの裏道」から(花火を見るため?)に駆ける「君」の背中を見て好きとは言えないでいる
・花火を見てきれいと言った「君」の手を握り締める
・初めて「君」をみた僕の印象は「優しい人」(誰よりも笑った様を見て?)
・心に空いた穴が塞がっていない(引きずっている?)
・「君」がいなくなった事を泣く「僕」
・「いつか他の日誰かと付き合っても思い出す」
「恋想花火」は単体だと「淡い初恋」とか「なかなか積極的にいけない男子」というイメージがある。
けれどひねくれた僕はこう考えた
この2曲は「喧嘩ばっかりで冷めたので別れた2人のその後」の物語である。
「優しい人」「特別だと言ってくれる人」と思いあっていた2人が、一緒になり、時間が経つにつれ冷めてきて、何かとお互いを傷つけたり喧嘩ばかり。もうどちらかが「別れる」と宣言しなければ泥沼の様相を呈してきている関係。それでも何となくお互い機嫌が良い日もあるし、何より情がそこにあった場合、別れるという選択肢は非常に後ろ髪をひかれる思いなのだと思う。けれど、この状況を脱するにはどちらかがババを引かなければならない。お互いがもう好きとか嫌いとかではなく何となく「面倒臭い」関係になっていたのではないだろうか。
花火大会というカップルにプラスになる要素満載のイベントで、別れの単語が出てくる(恋想花火)のは、「僕」が状況から抜け出したくて、もしくは悪者になろうと決心していたからではないか。そして彼女に「自由にならないか」と告げたとなるとしっくりくる。「僕」は彼女の事情を知っていたけど何もできなかった状況を知っているだけに、彼女にその荷を負わせたくなかった。
じゃあ「手を繋げないでいた」とか「好きと言えないでいた」の部分はどうするんだといわれるかもしれない。いや、そこは突っ込まれてしかるべきだ。そこもこう考えた。
「彼女を追いかけているけど、(昔のように)好きだと言えなかった」
だけど「別れたくない」という想いもあって「君の手」を「花火を見ながら強く手を握りししめていた」
手を繋げなくなるというのは、別に付き合う前でなくても結構勇気が必要になってくる時もある。であるならば、上記の考察でも十分に成り立つ。
花火の時は決心が揺らいだものの、帰りの改札を出た後に「自由にならないか」と告げた。
その後別れた2人。
ここで次の疑問。別れた後、男はどう思っているのか。
時間が経過して「もう大丈夫だよ。どこかで花火観てるかな」と思える「あたし」に対して「僕」は「君のいない世界で泣く」。ここだけ見ていると「僕」は彼女がいなくなって漸く彼女の大事さを痛感して、それを引きずっているようにとれる。
例えば、先に書いたように「僕」の中に「彼女(君)のこと面倒臭い」があって、その想いが強くて別れたならどうだろう。花火を見る時に笑顔も作れないくらい冷めていて、改札に出たころに「(疲れた……)もう僕たち自由にならないか」と告げたなら。その後の歌詞も大分印象が違ってくる。時間が経てば「ああそんなことあったな」程度で済み「いつか僕が他の人と付き合っても思い出すだろう」なんて都合よく昇華してしまえるのではないか。いや、これは妄想でも暴論に近いだろうか。やはりよく言われる「男はファイリングで保存・女は上書き保存」という暴挙でしめた方がいいのかとも思ってしまう。やはり「僕」は引きずっているのだろうか。
これを読んだ人はどう考察するのか、もし読んだという人がいたら聞かせてほしい。
というわけで水樹奈々2つの花火はひとつの物語というお話。
来年こそは水樹奈々を生で見られると信じて、今日はここまで。