ミラン・ラボの功績と現在の姿
ミラン・ラボの誕生
ミランは2000年冬メルカートで、レアルマドリーのフェルナンド・レドンドの獲得に€30Mという巨額の資金を投じた。まさに彼はキャリアのピークにあった。マドリディスタこの移籍に抗議したが、交渉はすでに完了していた。しかし、束の間にレドンドは怪我をしてしまった。ミラニスタが彼の姿を再びピッチで見ることができるまで837日も要した。ミランは€30Mの投資を無駄にしてしまったので再発防止を誓った。
1980年代、ディナモ・キエフの伝説的な監督であるヴァレリー・ロバノフスキーは、筋肉の治療を専門とするのアナトリー・ゼレンストフ医師とチームを組み、ロバノフスキーの激しいサッカーに選手が適しているかどうかを確認する為に、選手を身体的に分析し、科学的テストや分析を行った。ミランはそれを参考にしスポーツ医学に投資する道を選んだ。
ベルギー人医師の登場
ミランがディナモ・キエフのシステムを成功させる為には、ゼレンストフ医師の功績を上手く再現できる人物が必要だった。そこでミランは心理学とキネシオロジー(人間やその他生物の体の動きを科学的に研究する学問)を専門とするベルギー人のジャン=ピエール・メーレスマン医師にコンタクトをとった。
メーレスマンは型破りな治療で有名な医師でもあり、彼の協力を得て2002年に有名なミラン・ラボを設立した。この施設は選手の怪我を予測し管理する為に、最新鋭のテクノロジーを導入したセンターだった。「予防は治療に勝る」という言葉があるように、サンプルを科学的に分析し、怪我を未然に防ぐことがミラン・ラボのモットーだった。
これらの手法はデータ収集、アルゴリズムの非常に複雑なシステムによって分析された。選手は15日ごとに様々な運動を行ってデータを収集し、そのデータは医師や数学者によって分析される。このデータを基にして、マイクロソフト社と共同でソフトウェアエンジニアが開発したあらゆる計算を用いることで怪我を未然に防ぐ事ができた。メーレスマンは「単純なジャンプのデータ分析を行って、そのデータをシステムに入れたら、その選手が怪我をするか否かを70%の精度で予測することができる。」と述べている。
2013年までにミラン・ラボは選手に対して120万回のフィジカルテストを行っている。もし選手が怪我をした場合は、メーレスマンの監視下で特別なケアが施されたようだ。
往年のレジェンドとミラン・ラボ
クラレンス・セードルフは股関節の怪我に悩まされ続けで、それが原因で衰えたと見なされてインテルから放出された。メールスマンはセードルフの怪我を徹底的に調査した。すると見事にセードルフはミランで再起を果たし、ミランのレジェンドとなったのだ。
マルディーニやコスタクルタが40歳までプレーができたのも、メールスマンの監視下では年齢を感じさせなかったのも大きいだろう。UEFAチャンピオンズリーグを制したチームは、現在でも史上最年長のチームであり、マルディーニはビッグイヤーを掲げた最年長のカピターノである。
偶然にもメールスマンの就任は、カルロ・アンチェロッティの監督就任と重なった。彼らはその才能と最先端のテクノロジーやデータサイエンスを駆使し、常勝チームを作り上げた。2000年〜2010年にかけて、ミランはUEFAチャンピオンズリーグを2回制覇、コッパ・イタリアを1回、スクデットを1回優勝した。
メールスマンは、フロントから選手と契約する権限を与えられていたようだ。かつて30歳以上の選手は衰えており引退間近だと考えられていた。しかし彼の非常に高い分析能力により、30歳以上の選手を低コストで多く契約することを可能にしたのだ。有名な例は、32歳でローマからミランに移籍したカフー。カフーはミラン・ラボのサポートによって、ミランで5年間トップレベルのパフォーマンスを発揮することができた。
同じく有名な逸話として、2008年にミランにローン移籍したデビッド・ベッカムの話がある。メールスマンは「君は38歳までプレーできる」とベッカムにアドバイスし、ベッカムはそのアドバイスを受け入れてミランにやって来た。そして彼は移籍に関する拒否権も与えられていた。最も有名な例はアリ・シソコだ。ミラン・ラボが彼の歯に異常を発見し、今後筋肉のトラブルに発展する可能性があるとして、移籍が土壇場でキャンセルされた。
ミラン・ラボの終焉
どこで終わりを迎えたのか。2009年にカルロ・アンチェロッティがミランを去ってから凋落は始まった。その後、ミランは当時若手監督のマッシミリアーノ・アッレグリを招聘した。アッレグリがスクデットを獲得したにも関わらず、ミランは既に経営損失を被り始めていた。その結果、予算が大幅に削減されて「ミラン・ラボ」はかつての機能を失った。
2013年にメールスマンはこう語っている。
「試合後、20分以内に炭水化物を摂るように指示を出した。イタリアではパスタを主に食べさせた。ロッカールームにシェフが出張してくれた。コストや手間はかかるが効果はあった。その後、ミランはそれをカットした。予算の関係で削って削ってを繰り返すうちに、突然上手くいかなくなってしまった。最近は、試合前と試合後に選手の身体をチェックするのが主になっている。」
ミラン・ラボという名前こそ残っているが、メールスマンが管理していたラボに比べると見劣りする。最先端のテクノロジーはもはや存在せず、ミランはコンティやカルダーラのような多くの損失を被った。
メールスマンは2010年にミランを去り、コンサルタント・プラクティショナーとして活動している。彼のミランでの仕事は革命的だったと言える。もしミラン・ラボが力を維持していたら、アレシャンドレ・パト、ステファン・エル・シャーラウィのような選手はどのようなキャリアを描いていたのだろうか。
[参考: SempreMilan.com]