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国宝の中空土偶を見て縄文の最大の魅力は“自由”だと気づく

縄文について書く2回目にして、1つの土偶に1回分を費やしてみたいと思います。その土偶は、今まさにトーハクでやっている縄文展にもやってきている、函館市(旧南茅部町)で出土した「茅空(かっくう)」こと国宝の中空土偶(函館市著保内野遺跡出土、縄文後期後半)。

タイトルに縄文の最大の魅力は「自由」だと書きましたが、これは縄文時代の人たちが自由だったということではなくて(そうかも知れないけれど)、現代の私達が自由に見ることができるし、解釈することができるし、言い方は悪けれど「使う」こともできるということです。

前回も「謎が縄文に惹かれる最大の要素」などといっていましたが、謎をいかようにも解釈する自由があるというところが縄文の魅力で、それは何度も言います。

さて、今回取り上げる「茅空」ですが、女性、中でも妊娠した女性を象った物が多いと言われる土偶の中ではやや異色の形をしています。顔は中性的ですが、顎にひげを思わせる装飾があり、肩幅があり、お腹もスッキリとしています。その一方で妊娠線らしき線があり、下半身はどこか女性的。男性なのか女性なのかいかようにも解釈のしようがあります。

それでこの土偶は男性だ、女性だ、はたまた男性と女性の両性を併せ持つものだなどと論争?があるわけです。性別をどう解釈するかは、学術的には重要なのかもしれませんが、私にはそんなことはどうでもよく思えます。

それよりも、なぜこの土偶はこのような姿かたちをしているのかを考える方に興味があります。土偶にも作られた目的があったわけで、その目的にとってこの形や姿がふさわしかったということから、この土偶がどう使われたかを考えたいのです。

さて、土偶が展示されている博物館などに行くと、「土偶のレプリカを持ってみよう!」というコーナーが時々あります。あれば持ってみるのですが、それで気づいたのは土偶は持ち心地が重要なのかもしれないということです。

というのも、例えば亀ヶ岡遺跡で発見された遮光器土偶(通称しゃこちゃん)をもつ場合、両手で手を持つとしっくりと収まるのに対して、真福寺貝塚出土(さいたま市)出土のミミズク土偶などは片手で胴体を持つと手に馴染みます。縄文早期などの小型の土偶は持ったことがありませんが、おそらく手で包み込むとピタリとハマるのではないかと思います。

この茅空は持ったことないのですが、片手で持つタイプだと思います。腕はなくなっていて形がわかりませんが、胴体がスッキリしているので片手で握りやすい、しかも中空になっていて軽いはずなので重すぎるということもないはずです。大型の中実土偶は重いので片手では持ちにくいのではないかと思うのです。なのでさらに推測を進めると、片手で持ちやすくするためにこの土偶は中空になったのではないかとも考えられます。

そうやって土偶の持ち心地について考えていくと、それぞれの土偶を使う情景がだんだんと思い浮かんできます。ここからはほぼ妄想ですが、そうやって妄想することも縄文の楽しみ方の一つだということは縄文好きの多くが思うことだと思います。

両手で握るタイプの土偶はおそらく儀式で使ったのでしょう。誰か一人が土偶を持って祈るなり話をするなり歌うなりして、その後ろに10人とか20人の人がいる、そんな状況を想像します。

それに対して片手で握るタイプの土偶は一人で静かに祈るか、数人でいるのに使われたのではないかと思うのです。片手に土偶を持ちもう一方の手で炉に火をくべるとか、太鼓を叩くとかそんなことをしていたのではないでしょうか。

そんなふうに想像すると、片手で持つタイプの土偶はある意味「うちわ」のもので、身内の誰かや先祖を象ったものなのではないかと思うのです。それに対して両手で持つ大勢での儀式で使うものは「神」を象ったものではないかと。

土偶の出土は場所や時代によって多かったり少なかったりしますが、かなりの数が出土していることは確かです。ということは大勢での儀式用のものを代々使うというのは珍しい例で、ほとんどは個人や家族が行っ世代限りで使ったものだったのではないでしょうか。

この茅空は大型で手が込んでいるので、大事に受け継がれていたものなのかもしれませんが、もっと小型のものや簡易なものは儀式のときに壊されたという説もあります。

でも私は土偶というのはもっと個人的なものだったんじゃないかと思います。子供から大人まで誰もが自分用の土偶をデザインして持つような、それこそ人形のようなもの、今も土偶をキャラクターにしたマスコットがぬいぐるみになっていたらしますが、それくらい身近なものだったんじゃないかと思ったりするのです。

土偶のデザインが遠く離れた場所に影響を与えたりするというのも、交易をしたり旅をしたりするときに人々が土偶を身に着けていて、それが伝わったからなのではないか、そんな想像をしたりします。

土偶は(土器もですが)、いろいろなものを知れば知るほど、それぞれの土偶についての解釈の余地が広がっていって、どんどん想像の羽が広がっていく気がします。厳密に学術研究をしている人は違うのでしょうが、われわれ素人は本当に勝手に色々なことが妄想できるのです。それが縄文の自由であり、素晴らしさであるのだと思います。

そして、全く根拠がないこんなことをつらつら書くのも自由だし、恐れ多くも土偶を分割して画像として使うのも自由。それが「使う」自由。

今回、取り上げた茅空は、現在は東京国立博物館に出張中ですが、普段は函館市縄文文化交流センターで一室を与えられてどーんと展示されています。函館の市街からはちょっと遠いですが、見に行く価値はあると思います。


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