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バイクに乗るのが夢だった話1

 大変贅沢な話なのだが、僕は2台のバイクを所有しています。一台は「スーパーカブ50cc」もう一台は「GSR250」 カブは2016年に購入。GSRは2024年に購入。カブは新車、GSRは中古。どちらも同じくらいの値段。
 「バイクに乗るのが夢だった話」は2回に分けて投稿しようと思う。
 (1)バイクそのもの、免許所得について
 (2)バイクの旅いくつか
 まあ、こんな感じで行くつもりですが、どうなるかは分からない。

子どもの頃の憧れ〜ゴリラを手にするまで

 小学生の時(だったと思う)、どこでだったかは分からないけれど、ホンダの「ゴリラ」ってバイクのカタログを見た。その時「なんてカッコいいんだ」と僕の目はそのバイクに釘付けになったのを覚えている。
 まあ、いわゆるミニバイク。プラモデルで何回も作った。

本格的な形とサイズの不釣り合いが魅力。大人が乗るとサーカスの動物芸のようになる

 そして、何となくではあるがバイクに対する興味や夢を持つようになった、家は裕福ではなかったし、いわゆる「バイクなんてとんでもない」って分かりやすい思考に彩られた両親だったから、さまざまな事情から家では波風立てないように注意深く育った僕は、一年の浪人後大学を卒業し、教員採用試験に二年続けて不合格。代替教員の後、北海道の三石という町に25歳の新卒教員として赴任するまで・・・つまり実家を出る時までは、決してバイクの話もしなかったのです。
 実家に何故、波風を立てずに暮らしていたかについては、またいずれお話します。
 4月に一人暮らしを始めて、本当にひと月ほど経った時でした。新聞に隣町でバイクの展示会があるというチラシが入ったのです。「ゴリラ」に対する憧れを急激に思い出した僕は、すぐに展示会に行きました。展示会でゴリラがあった訳ではないのですが、田舎町で地元にバイクショップなんてありませんから、展示会で注文して夢だったゴリラを購入したのでした。
 ゴリラは7年乗りました。転勤の時に手放しました。結局、車体が小さすぎて長距離乗るにはきつかったのと、50ccのミニバイクでツーリングという発想そのものがなかったのです。
 僕はその後バイクとは無縁の生活を20年ほど過ごしていました。「おっきいバイクはかっこいいなあ」「免許がないから乗れないなあ」なんて思いながら。妻にも「バイクに乗りたいなあ。免許取りに行きたいなあ」って話はたまにしていました。現実的ではないのですが。

娘の事故〜カブ所有まで
 僕はバイクの免許は持っていませんでした。だから、ゴリラも自動車免許で乗っていました。
 正確には違うかもしれないけれど、多分2014年だったと思う。
 妻は僕がバイクに乗りたい、つまり免許を取りたいと思っていることは知っていたので、何度か「取りに行けばいいしょや」と北海道弁で言っていました。でもなかなか踏ん切りはつかず、実際に行動に出ることはしないでいました。でもたまたまその時担任していた学級の保護者が自動車学校に勤務していた(ような気がする。違っていたのかもしれない)ことを契機に、当時勤務していた静内という町の自動車学校に、意を決してバイクの免許をとりに行った。申し込みに行ったのだ。10月だった。そしたら「あー先生、今年はもう終わりになってますよ」と言われたのだ。寒冷地では冬になる前にバイク免許の講習はできなくなる。まあ当然のことだ。僕はガッカリはしたけれど、「よし、春になったらバイク免許だ」と前向きになってその年の冬を迎えたのだ。
 新年を超えて、忘れもしない2月14日のことだった。
 一時間目だったと思う。政府が自殺者の増加への対策として「自殺防止法」みたいなものを作成しているというような話をしていた。相手は四年生。「法律で禁止する自殺ってあり得ない」と話していた。法律で禁止できることと環境を整えることでしか防げないことがあるって話をしていた。
 教室の戸の所に学校の事務生さんが顔を出した。「奥さんから電話です」って。大体妻が授業中に僕を電話で呼び出すなんてありえない事だ。彼女も同業者だから。何かあったのかも・・・と悪い予感がした。
 大急ぎで職員質に戻った。子どもたちには「ちょっと待っててくれ」と言い残して。
 職員室には校長さんも、教頭さんもいて「奥さんから電話入ってる、娘さんに何かあったみたいだ」と言った。
 電話に出ると妻は、緊迫した声で「S(娘の名前)が事故った」「死んではいないけど、大怪我で救急車で運ばれた」と言った。娘は大阪の堺で暮らしている。彼女は堺に住んですぐに自分でバイクを買って乗っていた。まあ、自分の責任でやっている事だから文句を言うことではない。さらに言うなら僕は若干羨ましい思いさえ抱いていた。
 この事故の一件もちゃんと書くと大量のものになるので、ここでは割愛する。
 学校のことはぶん投げて、妻と合流し大阪に向かうことにした。いつまで学校を空けるのかも分からないので、子どもたちにいろいろ指示しようと思ったら、当時の校長さんにかなりきつく怒鳴られたっけ。「いいから早く行きなさい」って。あんなにあったかい怒鳴り声は聞いたことがない。感謝している。この時の担任する保護者にも本当によくしてもらって、今でもお付き合いさせてもらっている。
 妻から聞くと、娘から妻の携帯に着信があったのだそうな。妻は当時も今もほとんど携帯電話には出ない人だ。当時はスマホではなかったが、それはずっと変わっていない。息子に言わせると日本一携帯電話の機能を無駄にしている人だ。
 でも、娘から電話があった時、本当に偶然だけど彼女は職員室にいて、自分への着信に気づいて電話に出たのだそうな。そしたら事故ったって話。救急車の中から自分で電話してきたって。僕は意外に思った。娘はお母さんが電話に出ないなんて百も承知だ。僕に先に電話するはずだ、と思った。僕は自分の携帯を見た。「どうか娘からの着信がありませんように」と願いながら。だって自分が大怪我して、僕に電話してきているわけだ。いくら呼んでもお父さんは電話に出ない、その時の娘の気持ちを考えたら胸が潰れそうだ。
 電話を見たら、やはり娘からの着信があった。数ヶ月に及ぶこの事故の関係の出来事の中で一番切なかったのはこの瞬間だった。

 荷物造りもそこそこに取り敢えず千歳空港に向かった。
 飛行機は確保していない。スマホではないから直接千歳空港に電話をかけて、今乗れる飛行機を探してもらった。これも悲しい話なんだが、人としての性のようなものを感じた瞬間もあった。片道4万以上する。2人だから9万ほど。関空、伊丹どっちでもいいから、少しでも早く行ける飛行機を探してもらったのだが、値段を聞いてビビった。一便遅らせると少し安い。一瞬迷った自分がいる。でも「金の問題ではない」割り切ってそのバカ高い飛行機にのって大阪に向かった。堺の救急センターの一般病棟ではなく、特別治療室のようなところに娘はいた。堺には親戚の人がいてお世話になっている。会社の人も来てくださっていた。でもその治療室には入れてもらえないのだ。だから治療室の前にいて、僕らが来るのを待っていたのだ。
 僕らが会社の方や親戚の方にお礼を言って、治療室に入れてもらうと娘が横たわっていた。事故から一度も意識を失わずにいたのだそうな。顔を見ると彼女は「お父さん、ごめんなさい」と言った。彼女は昔から泣くと顔がまだら色に赤く上気する。その時もまだらになった顔を涙が伝わっていた。「そんなものつけないで普通にしているのが一番めんこいのに」と言っても決して言うことを聞かなかった耳のピアスのところを涙が伝っていた。
 いつか、こんなことになるような感じの子だった。人の思いや好意をアダにするようなところもあり多い。事故原因も含め完全に彼女はウルトラ馬鹿なんだけれど、ウルトラ馬鹿でも娘は娘。「生きててよかった」「痛かっただろうなあ」が正直な感想だった。
 僕は彼女を自分の膝の上で育てたと思っている。たくさん怒ったし、叩いたこともあったけれど、基本めちゃめちゃ可愛がって育てた。だって可愛くて仕方なかったから。
 骨盤の粉砕骨折、他にも数箇所の複雑骨折。事故原因は100%娘の過失。相手は車。相手は怪我はなし。車の弁償(保険には入っていた)で済んだ。50メートルほど吹っ飛んだらしい。
 警察の方が言った。「命があるのが不思議なくらいの事故です」って。事故ったバイクを見たけど、こんなにバイクは潰れるのか・・・と思うほどだった。骨盤付近には多数の臓器があって、臓器に損傷があれば命も危ない。病院の先生の話では「命に別状がないとはまだ言えない」とのことだった。
 事故の話が長くなってしまった。
 その後、かなりのデカい手術を経て、命の心配は無くなった。リハビリを経て奇跡的に障害など残らずに現在を迎えている。
 もし、彼女が死んでいたら・・・妻も僕も生きてはいられない。一体何のために育ててきたのだ・・・と自分を責めていただろう。でも、我が家にはもう一人弟もいる。娘のことばかりではいられないのだ。もっと言えば、僕らの商売は時には自分の子よりも他所様のお子さんのことを優先する宿命を持っている。
 いろんな奇跡的な出来事や配慮によって彼女は今に至っている。そして、以前にも増してバイク生活をしている。オフロードのレースなんかにも出ている。こんなことがあったからもうバイクはやめました・・・なんて一般論は娘には通用しない。本当に困った奴だ。

 体に障害は残らなかったと書いたけれど、一つだけ大きな障害が残っていた。
 それは

妻のバイク反対者化〜免許所得まで
 まあ、仕方ないだろうとも思う。妻は「バイクなんて・・・」とバイク自体を嫌うようになった。でも、「おっきなバイクでなければ」と言って50ccバイクの所有を許してくれた。僕はものすごい安全運転だ。特に二輪は。事故ったらどれだけ周りの人が悲しむかを自分ごととして知っている。
 しばらくはバイクなんて考えもしていなかったけれど、数年してカブを購入した。

こんなふうにして、日本中を旅するのだ。2024年9月。

 日常あまり乗らなかったけれど、時間ができるとフェリーで本州に渡りツーリングをした。本州には一年に一回は行っていたかな。一番遠くは四国しまなみ街道。これは舞鶴から。八戸から新潟までも行った。カブってすごいのだ。脅威の耐久性と燃費だ。
 堺にいる娘と待ち合わせて彼女はデカいバイク、僕はカブでツーリングをしたことも2度ほどある。妻はどんな思いだったのかな・・・と思うこともあるけど、せめて「デカいバイクは乗らない、免許取りには行かない」ってことが僕の免罪符でもあった。
 そして、退職を迎えることになる。僕の退職は61歳だけど、60歳で辞めた。体も心ももたなかった。
 ある日妻は言った。何度も妻が出てくるけど、基本的に僕が言うことよりも妻が言うことの方が正しいので、彼女の意向に沿って行動するように僕はしている。
 「バイクは今でも嫌だけど、退職したんだし、やりたいことやったらいいしょ」「バイクの免許も取りに行ったらいいしょ」また北海道弁で言った。
 カブ旅の詳細は次号に譲るけれど、フェリーなんかに乗ると、何百万するのだろうというようなバイクがいっぱいある。そこにカブ、しかも50ccが一人前の顔して乗っていることに対する楽しみも感じていたのだが、おっきなバイクに対する憧れは持っていたので、ありがたく60の手習いとなった。2024年の8月のこと。つまり、前述の写真はすでに中型免許を取得した状態でのカブ旅になる。申請していたけれど免許は来ていないという状態だ。
 60の手習いの大変さもいずれ投稿しようと思う。
 免許は取ったけど、退職後で収入もないし実際にバイクの購入は現実的ではなかった。「中型免許は持っているカブ乗り」になると思っていた。一番の理由は経済的なことだ。
GSR250との出会い
 でも・・・色々経緯もあったし、そろそろ詳しいことを綴るのに飽きてきたので、バイクを購入することにしました。苫小牧のバイク屋さん。実はカブを購入した店です。
 妻が反対派になった経緯をお店の人に話していました。「それは奥さんの言う通りにした方がいいですよ」と言われていました。「奥さんの気が変わったらいいですね」なんて話も何度もしていました。僕はカブのメンテナンスで店に行くたびに中型のバイクをいつも眺めていました。
 そして「よし、購入しよう」と思って店に行った日にGSR250と出会ったのです。

店内で初めて見たGSR250


 店内で一番安価なものだったように思う。30万弱。最初見た時、「250にしてはデカいなあ、色がダサいなあ」と思った。
 流石に即決とはならないので、他の店も回ってみた。そうしているうちに「無駄にデカくて、色がダサい」あのGSRをどの店に行っても探している自分に気がついたのだ。そんで、結局最初に見た、このトランスフォーマーみたいなバイクに決めることになった。
 このバイクは基本的には不人気車種だ。デカくて重い。強いパワーはない。色は好みによるけど、決して人気のあるものではない。中古だから色の指定はできないし、逆に乗ってる人も少ないかも。この色に60過ぎの爺さんか乗ってる様子も滑稽でいいなあと思ったりもしている。低速のトルクは強く、ゆっくり安全にツーリングなんかをするには、店の人曰く「楽しめますよ」とのことだ。
 納車は10月だった。そこから遠くへのツーリングは寒くて無理なので、ひたすら近所で練習だ。そして、乗ってもいないのにひたすらピカピカに磨くのを日課にしている。冬もバッテリーを外して冬眠させたりせずに毎日エンジンかけて悦に入っている。
 車庫を建てる財力はないので、テント式の簡易車庫を建てて、飛ばないように色々と補強してる。

ものは大切にするもんだ
 僕は、物にも命のようなものがあるような気がしている。「大切なものは大切に扱うと答えてくれる」みたいな「八百万の神(やおよろずのかみ)」のような考え方だ。靴なんかも異常に手入れをする。今も40年も前に買ったハッシュパピーのスリッポンが現役でいる。

20歳の時に買った。


 カブをどうするか迷った。売ろうかとも思った。でもやめた。理由は「かわいそう」だからだ。カブで本州の峠を越える時、僕は彼女に(なぜかカブは女性なのだ)「頑張れ頑張れ」と声をかけ続けた。大阪と奈良をむすぶ「酷道」として有名な「暗峠」を超えた時は、完全に登れなくて止まった。だから押した。娘は「お父さんはデブだから登れないんだよ」って言ったっけ。
 だから、カブもいつでもピカピカにしている。2台ともにとても大切に手入れしている。バカみたいだけれど、趣味としては金もかからず、誰にも迷惑かけないからいいんじゃないかと思っている。カブも当然毎日エンジンかけてご機嫌を伺っています。

今日のカブ
テントの中のGSR

 今はひたすら、あったかくなるのを待っている。多分カブで遠出はもうしないと思うが今度はGSRで出かけようと思う。
 実は4月に本州ツーリングに行く計画をすでに立てています。フェリーはまだ取れないので計画だけ。恥ずかしながらホテルは予約しています。

 健康で春を迎えるのが目下の目標です。



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