第1回フクシマ部スタディープログラム帰還困難区域見学レポート
みなさんこんにちは!
グローバルシェイパー横浜ハブの牧野です。
7月17日午後にフクシマ部スタディープログラムの一環として1時間ほど帰還困難区域に入らせていただきました。そのレポートになります。
「帰還困難区域」とは、放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域のことです。詳しい区域は下の図やホームページを見てみてください。
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list271-840.html
さて、今回は大熊町から帰還困難区域に立ち入らせていただきました。入り口には警備の方が2名おり、事前に申請した資料と身分証明書の提示が求められます。立ち入れる日数や時間帯も決まっています。
帰還困難区域の入り口
帰還困難区域に入り、車を走らせること数分、私たちはまず大熊町立熊町小学校を訪問しました。
校舎の入り口
入り口から敷地内に入り、私たちはまず校庭へ向かいました。校庭では同行していただいた木村さんのお話を伺いました。木村さんは当時小学生でこの学校に通っていた娘さんを震災により亡くされてしまっています。
木村さんに写真を手に当時のことをお話しいただきました
次に私たちは校舎の方へ向かいました。校舎の窓から見える景色は、震災直後の教室内の様子です。教室内の様子はそのまま時を止めて残っていました。
教室内の様子。あの日から時が止まっています。
黒板にはいつも通りの授業の風景が日付とともに残っています。
次に私たちは海岸の方へと車を走らせました。その道中には至る所に土嚢が見られます。このエリアは中間貯蔵施設と呼ばれている領域です。
中間貯蔵施設の役割は、福島では除染に伴う放射性物質を伴う土壌や廃棄物が発生したため、最終処分するまでの間、安全に管理・保管・貯蔵することです。
環境省のホームページにわかりやすい動画があります。
https://youtu.be/RvCCbiN7fVw?list=TLGGFliKmhY5q5EwODA4MjAyMQ
道路の脇にある大量の土嚢
土嚢を運搬するためのベルトコンベア
次に私たちは旧水産種苗研究所を訪れました。この建物は海岸付近にありますが、海抜10mほどあるとお聞きしました。しかし、写真を見てもわかる通り、屋根の部分まで津波に襲われています。写真には写っていませんが、左手の屋根の部分は津波に流され、跡形もありません。
津波に襲われた養殖などを研究する施設
その付近には「TEPCO (東電) will last for 1000 years」の文字。これはいつ誰がどのような意味で書かれたかは分かっていない。
最後に私たちは木村さんのご実家の場所を訪れました。ご実家は津波で流されてしまいました。その津波により、奥さん、娘さん、お父様が行方不明になってしまいました。その後、必死の捜索活動により奥さん、お父様の遺体は見つかったものの、娘さんの遺体は2割程度しか見つかっていないそうです。
当時のお写真と現在のご自宅跡
お庭にある「笑」という花文字。現在木村さんはteam 汐笑プロジェクトを行っている。
木村さんはそのほかにも大熊未来塾という活動を行っています。お話の途中には「このようなことがあったことを伝えていくことが大事。また、このことから私たちは消費の在り方を本当に考えていかなければならない」とおっしゃっていたのが本当に印象的でした。「消費の在り方を変えなければ、きっとまた形を変えて同じようなことが起こるのではないか」この言葉は私の中にしっかりと残っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この記事を通して帰還困難区域のことを少し学んでもらったり、福島の人を通して自分たちの生活を少し振り返る機会になればうれしいです。
11月12日~14日に私たちはスタディープログラムで福島第一原子力発電所や伝承館などの当時の資料がある場所を訪れます。皆様もぜひ参加しませんか?
大熊未来塾の取材記事
team 汐笑プロジェクトの動画
木村さんのインタビュー記事
https://www.asahi.com/articles/ASP396JR4P2LUGTB007.html