アメリカ労働運動史 〜産業勃興期から第2次世界大戦まで〜(1)

割引あり

 アメリカ合衆国は周知の通り、今日の世界で最大の国内総生産を誇る国である。この国は第2次世界大戦を境に世界での覇権主義を振るい、その反共主義によって世界の労働者の生活改善を阻んできたことで悪名高い。日本について言えば、この国の当時のナショナルセンターであったアメリカ労働総同盟−産別会議(AFL-CIO)はGHQの労働政策における逆コースに加担し、反共分子を後押しした事実もある。それゆえ、この分野における知識が日本語論壇で共有される意義が軽くないだろう。

労働運動の興り

 アメリカの労働運動の興りは1870年代の不況時における失業者の抗議活動に求められる。失職した労働者たちが都市部で救済を求める集会を開いた。これらの集会はしばしば警察の解散命令を無視するという形で治安事件に発展し、新聞や世論は軍警の肩を持つという逆境の中でこの国の労働運動は胎生した。

 世論が警察に味方にしたのは、自由と独立を語る国のありようとしては矛盾しているように思われる。しかしこれはこの国が公言するイデオロギーには優先順位がある、ということに過ぎない。自由と独立に優先しているのは人民主権である。

 アメリカの産業勃興は、南北戦争後の安定がもたらしたものであるが、この産業の発展を支えたのは海外からの移民である。そうした外国生まれの人々は社会主義や無政府主義といった経済思想をも持ち込み、そうした事情も一因となって、労働運動それ自体も他所者が煽動したものとして受け止められるようになった。注意すべきなのは、移民が全員経済思想を持ち合わせて米国へと移住したわけではないというのはもちろんのこと、全員が労働運動に参加したわけではなく、また、米国に生まれ育った者にも当然労働運動に参加する人々がいた、という事態の複雑性を理解することである。

 つまり、「アメリカ人」の人々は余所者を主権者として認めず、警察の暴虐の恣に任せたわけである。アメリカは大陸国家だが島国根性盛んであり、抗議運動の舞台は都市だが偏狭な田舎者の集まりであるというわけだ。「偉大な民主主義」を外国へ輸出しようという試みはウィルソン大統領による宣教師外交によって始められたが、その冷戦期やフィリピン政策の腐敗はこうしたアメリカの民衆の反応によって予言されていたと言えよう。

 この時期の典型的な事件としては1874年のトンプキンズ広場事件がある。ニューヨーク市で開かれたこの集会では当初警察の許可を得ていた。しかし、第1インター系の活動家が演説するという情報が伝わるや否や許可を取り消し、何も知らずに集まっていた労働者とその家族に突然襲い出し、多数の負傷者を出したというものである。

 労働者の抗議活動は都市部の外でも行われた。ペンシルヴェニアの炭鉱地帯ではペンシルヴェニアの炭鉱地帯では被用者が組合を組織することで賃下げに組織的に抵抗した。経営者側はこれにスト破りの労働者を雇うことで対抗したために、闘争は流血の事態にまで発展した。新聞社はここではアイルランド系の労働者の中にモーリー・マガイア団という秘密結社が入り込み、経営者やその協力者に殺害や脅迫などのテロ行為を行っていると報道した。この報道にどれほど実態があったのかは定かではないものの、1875年には組織幹部が摘発され、死刑などの重罪が宣告されることで闘争は労働者側の敗北で幕を閉じた。この事件もまたトンプキンズ広場事件などと同様、外国人嫌悪の感情が経営者に味方した例である。

 また、労働運動潰しに利用された権力機関は警察だけではない。1877年7月、賃金引き下げに抵抗するために、鉄道労働者たちはウェストヴァージニアから「大動乱」と呼ばれたストライキを実施した。彼らを排除するために州は州兵や民兵を召喚し彼らと戦わせ、最終的には連邦軍の派遣が要請された。こうした動きに反発する格好で、ストは全国へと急速に波及することになった。ぺンシルヴァニア州ピッツバーグではヘイズ大統領が鉄道の輸送の確保を名目に連邦軍を派遣する事態にまで至った。労働者の運動は企業の私権力と政府機関による公権力との結合した暴力の前に敗れていったのである。

 1870年代の労働運動は、労働側の敗北一色といった様相だが、80年代に入ると徐々に成果を上げ始める。そうした攻勢に経営側が危機感を抱き、反撃を加えるというのがこの時代の労働運動の構図である。ここでも経営側は急進主義に対する世論の恐怖を利用することで反撃に正当性を付与したのであった。これは日本共産党の言う「政治対決の弁証法」が綺麗に当てはまる事例の一つと言えよう。

 1886年のシカゴのヘイマーケット広場事件がそうした反撃のきっかけとなった。この年は8時間労働制を求める運動が全国的に展開された年であったが、この運動の中で起きたシカゴのマコーミック農機具工場のストが流血の事態となり、労働者側に死者を出すこととなった。

 この事件に抗議する集会が無政府主義者の煽動家の呼びかけでもたれ、労働者に武力でもって戦うように演説を行った。集会そのものは平和裡に終わったところ、警官が残留していた群衆に解散を命じた折、爆弾が警官隊の中に投げ込まれた。何人かの無政府主義者が裁判にかけられたものの、彼らが犯行に関与した決定的に明白な証拠はなかったにもかかわらず、世論の強い反発の中で有罪判決が下された。労働事件や急進主義に関わる事件については、この証拠なく世論の反発を背景にした不当判決がアメリカ史の中で繰り返されていくことになる。また、ストライキ自体について、その労働者は無政府主義とは何の関係もなかったにも関わらず、経営者側は労組と無政府主義との関係を仄めかすことでその力を削ごうとした。

 諸外国についてはともかく、今日の本邦においても、一部の人々は労組と共産主義との関係を強く邪推する習慣が身についている。これもまた占領軍のもたらした偉大な遺産であろう。経営者側があくまで労組と無政府主義との関係を断言せずに、仄めかすに留める、という手口についても共通したポイントである。これは明白な証拠がないにも関わらず、ある団体と急進主義と結びつけることで、その勢いを落とそうとするときに使われる方法である。あくまで仄めかすだけに留めることで、発言者は責任を負うことなく攻撃攻撃できるというわけだ(責任を追求されても「私はそんなつもりで発言していない」と逃れることが表面上はできる)。逆に言えば、このように発言者が責任を逃れようとしているかどうかを見抜くことで、簡易的にその発言内容が中傷目的であるかどうかは見抜ける。明白な証拠があるのであれば、責任逃れをしようとするような発言は出てきようがないはずである。

ピンカートン全国探偵社

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