見出し画像

報道から【やまゆり園事件】

やまゆり園事件の被告に死刑判決が下された。
当然だと思うが、何かひっかかる。
「浅い裁判だった」とコメントがあったように、この事件は、凶悪犯の死刑で終わりにできるものではない。

2016年7月に起きた、障害者施設での非道きわまりない事件。犯人がその施設で働いていた元職員の若者だったことも衝撃的だった。「優生思想」という言葉が取り上げられ、ナチス・ドイツと関連づけられた。
意思疎通ができない人、生産性がない人は生きている価値がない。障害者は不幸。だからいないほうがいい。恐ろしく短絡的すぎる不幸の定義づけと優生思想。

ぞっとした。けれど、、、

容赦なく弱者を切り捨てる社会が肥大化しているのも事実なのだ。
正直にいえばわたし自身、子どもが誕生したとき「五体満足でよかった」と思ったし、「生産性」を気にしたり、「できること」で優越感に浸ったり、優劣で人を判断したりすることもしょっちゅうある。

これが「何かひっかかるもの」の正体なのだろう。

「優れているほうが上」「劣っているのは下」と思う価値基準は、人としての道をわきまえた理性の範囲内なら、たぶん誰のなかにも潜んでいるものではないか。
それが何か大きく歪んだかたちに膨らんでしまった背景には、何があったのか。
その何かがこの事件を起こしたのだとしたら、凄惨な事件は個人だけの問題ではなくなる。このような価値や格差を生んでいる社会もまた歪んでいるともいえる。

ネットの情報で知る限り、被告が大きな不幸を背負っていたようには思えない。どこにでもいそうな「平凡な」少年だったという。家庭環境にも問題はなかったようだし、将来の目標をもって大学に進学している。
なのになぜ?という疑問は消えない。

ふと、親御さんのことを思った。
生まれてこなくてもいい命などはないはずなのに、その命が「死刑囚」で終わってしまう。
ひとりの親としても、やりきれない。

いいなと思ったら応援しよう!