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超私的・森山大道論(3) ー兆し:アレ・ブレ・ボケ
森山大道の初期作のうち、『現代の眼』5巻8号(1964年8月)に掲載された飯山安政との競作〈通行人〉は看過できない。この『現代の眼』は当時の左翼系総合雑誌であり、たとえば同一号に載せられたのは「全面戦争における仕立師の任務」であるとか「社会党とニホン社会党」というような論文であった。実はこの雑誌の編集者を勤めていたのが中平卓馬であり、森山は彼を介してアサヒグラフの木下秀男や寺山修司と結び合っていった。寺山の唯一の長編小説『あゝ、荒野』も1964年〜65年にかけて当該雑誌に掲載されたものである。いわば『現代の眼』はきたるべきprovoke時代を胚胎する核のような存在であったように思われる。
さて特集〈通行人〉を企画したのは東松照明であり、彼は次のような一文を写真集に寄せる。
映画の世界で 〈通行人〉と呼ばれる人たちは、1日800円の日当で雇われる端役、つまり〈その他大ぜい〉のことだ。あるときは画面に現実性をもたせるために、またあるときは主役をひきたたせるために、芸も能もなく、ただひたすらに歩かされるのが〈通行人〉だ。映画のなかの〈通行人〉と、じっさいの通行人の違いは、前者が役割を演じるのに対して後者は通行人の自覚がまるでない。 ある日とつぜん、不本意ながら、誰かによって舞台にひきだされ、〈その他大ぜい〉ではなく主役として脚光を浴びる。 文・構成 東松照明
映画と現実の通行人を対比させ、自覚ー無自覚、端役ー主役と整理している。
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この特集の中ほど、興味深い、貴重なテキストが載る。
(この写真をみた編集者と大ぜいの人たちの寸評)
☆影、一瞬
☆地震みたい
☆ピンボケ
☆レントゲン写真、モード
☆奇型みたいね、この足
☆通行人―被害者
☆そんなもんだね、よく言えないけど、大変だねえ
☆等質の空間
☆幽霊だな
☆無感動
☆はっきり言えないけどさあ、なんのあれにするかわかんないけどさあ、だけどちょっと変ってるわ、ふつうの写真じゃないんじゃない
☆浮き足だった王様
☆通行人―歩行者―善良な市民
☆他人の顔
☆きれいだけど淋しい感じ
☆そうねえ、これなんかみるとねえ…………なんだろう、これはこれは・・・・・・なんだろうれは…………これは
言語化できない感覚に困惑するもの、嫌悪するもの、なんの感慨も持たないものがみられ、当時のこの種の表現がいかに違和感をもって受け止められていたかを知ることができる。そして重要なのは、この寸評の中の「ピンボケ」という言葉が示すように、すでにこの頃、森山の写真は粒子が荒くコントラストがキツくピントを甘くした「アレブレボケ」の作風があらわれていたことである。
ここで、さきほどの東松の言葉を思い出したい。「 ある日とつぜん、不本意ながら、誰かによって舞台にひきだされ、〈その他大ぜい〉ではなく主役として脚光を浴びる」。この言葉の真意がどこにあるのか掴みかねるところがあるが、無自覚の自覚化、端役から主役への抜擢というニュアンスが含まれているように思える。
とすると、カメラを向け写真をとることで、通行人から抽出され脚光を浴びる人間の在り方を問おうとしたのがこの企画ではなかったか。しかしながら、できあがった写真は反ポートレートとでもいうような匿名性を強調した作品群だった。
抽出や脚光を拒否し群衆の群衆としての意味(匿名性)を追究していくアプローチの中でうまれたのが所謂〈アレブレボケ〉だったのではないか。