「何者」とは誰のことか?
先日、「何者にもなれなかった人のためのキャリア論」という議論のまとめがあり、なるほどと思いつつ、こんなことを呟いた。結論的には変わらないのだが、今回はここをもう少し掘り下げたい。
「何者」は他者目線の自己評価
「何者にもなれない」という箇所がなぜ私の中に残ったのだろうと思ったら、「鬼滅の刃」にそんなシーンがあったからだった。20巻で鬼の一人が「何故、私は何者にもなれない?」と言いながら死んでいくのだが、この鬼は傍から見れば色々なものを持っている才能豊かな人間だったのに、身近にもっと才能溢れる人間がいたためにその相手に対する嫉妬と劣等感から鬼になり、最後までその苦しみから解放されないのである。
「何者にもなれない」は自分の価値を他者評価においている。会社勤めだと業務評価や昇進があるから、それを否応なく思い知らされることがあるのは否めない。厚生労働省の調べによると日本人の85%はサラリーマンなので、多くの人がこのカテゴリーに身を置くのではないだろうか。私のいる外資の業界だと年功序列などないので、厳しく思い知らされることも多々。自分より一回りも年下が私より上の役職にいることなど普通にあるし、シニアなポジションに入ってくる人の社外でのキャリアは言葉を失うぐらいスゴイ人たちもたくさん。
でも人生はそこだけではない。
所属している界隈(コミュニティ、仕事、家族)での立ち位置
以前、自分の大切にしていることの3本柱として仕事、家族、武道を挙げて話したことがあるが、武道の箇所はコミュニティと置き換えられる。学生から社会人となり、人生経験を重ねていく過程で、人はそれぞれの世界で自身の立ち位置があるのではないかと想像する。もちろん、ライフステージやその時点での優先順位によって、どのように配分するかは人それぞれだろう。そのバランスに正解はないが、可能であれば一点集中投資するよりは分散投資がオススメだ。
人生の終盤に思い返すことは何か?後悔することは何か?
数年前に社内の研修で「あなたは90を過ぎて人生も終盤を迎えました。充実した人生を歩んできて、振り返った時に誇りに思えることは何ですか?」という問いについてグループで話し合うものがあった。目からウロコだったのは、その時、自分の中で浮かんだ言葉や映像の中に自分がその時に携わっていたプロジェクトや、その会社で働けていることに対するプライドなどが一切なかったこと。
もちろん今という視野で捉えれば己の幸運その他、感謝することはたくさんあるのだが、人生の終盤と言う俯瞰した立ち位置で振り返った時、自分がそこをポイントとしていないと知ったのは一つの学びだった。人生は長い。こんな調査結果もある。
古人の言葉
年齢のことを考えるといつも論語が思い浮かぶ。その昔、30を迎える前の時以来、定期的にこの言葉に戻ってくる。
子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず。
もうすぐ天命を知る歳だが、「自分の天命って何だ?」とたまに自問自答している。30の時はアメリカで自立していたし、40の時は迷わずと言うより、無我夢中で迷っている暇などなかった気がする。子供たちからは「お父さん、もうすぐ人生の折り返し地点だね」と言われて、人生あっという間なのか長いのか、これも答えの無い哲学的問いだ。
今回の「何者」ネタでもう一つ思い浮かぶのは「足るを知れ」という言葉。老子の言葉とも、仏教の言葉とも言われているが、あるものに感謝をし、次の世代にきちんとした世界が残せれば良いかなと思う。
結論
他者目線で自分が「何者」であるか悩むより、色々と挑戦して、楽しいことを追求していけば良いじゃないかと思う。
その試行錯誤の過程こそが人生の妙味。