重度障がい者として、この世に生を受け、両親、家族がいて、生活させてもらっている。僕の存在って。周りをつらくさせるのかな。
第2章 養護学校入学
神戸で一番目にできた養護学校に入るための特訓が始まりました。
母親は本当に私のために「せめて新聞だけでも読めるようにしたい」と言っては特訓を重ねてくれていました。
区役所に願書を貰いに行ったり、養護学校の方に面接に行ったりと奮闘の日々でした。
本当に今でも母親には感謝の気持ちが湧き上がってきます。
この頃の私たちの家の生活といえば相変わらず貧乏で、父の サボりぐせと女癖が甚だしく、生計を立てるのはいつも母親が働き稼いできては生活に当てていたのです。
そんな両親の姿、あの時のことは、私の脳裏から離れません。
私は複雑な気持ちで物事を捉え苦しくてなりませんでした。
本当に複雑な心境でした。
私の想いとして「絶対に将来、これから男として頑張って働ける自分になり、母親を楽にさせるんだ。」
と思う反面、現実に目を背け、この障害があれば果たして普通の健常者の息子のようになれるのだろうか。
仕事ができ、生活を楽にしていけるだろうかと複雑で不安でなんの根拠もない心境がありました。
そのような想いを抱きながらですが無事に養護学校へ入学することができました。
母親が昼間は私の学校へ付き添いで来なければいけなくなり、もっぱら生計を立てる意味においては学校が終わってからの勤めとなったそうです。
そのような日々の中、父親はもう少し働かなければいけないと思ったのか近所にある水道工事の会社勤めをすることになりました。
また、ある時は、家計の苦しさを見かねたのか突然父親が、宗教の話を持ってきて「今からお寺に行くで」と家族全員を連れだしました。
家族全員で日蓮正宗のお寺に入会することになりました。
今から思えば、父親は生活苦を抜け出すには宗教にすがるしかないと思ったのかもしれません。
その後は、宗教を取り入れた生活が始まり、そのような日々を送る中、少しずつ人並みの家庭的な生活を味わえるようになってきました。
少しずつ前向きな人生へと転換しはじめていきました。
そんな中、突如私の体に異変が起こりだしました。
手足の硬直と胸の筋肉が締め付けられるのです。
息も出来ないくらいに強いアテトーゼが起こりました。
近所にあるお医者さんに運ばれ、筋弛緩剤の注射を打ってもらいました。
20分ほど硬直状態が続き本当につらかったです。
今から思えばちょうど、真剣に宗教に取り組んで1年目くらいだったと記憶しています。ひとつの苦難が去ると、次の苦難が襲ってくる。
ひとつの障害の皮がはがれ、よくなる前兆として起こったのかもしれません。
その後は、小学校に入学してからの機能訓練の効果もあり、ぐんぐんと身体がよい方向になっている実感がありました。
・小学校3年くらいからあぐらをかけるようになりました。
・膝立ちができるようになりました。
・少しずつ人へ伝えられるような会話ができるようになりました。
言語の方はどもりはしますが、人とのかかわりがより楽しめるようになったのです。
やがて父は自分で商売をするまでになりました。
水道工事の請負や下水の浄化槽販売取り付けの店です。
ようやく、人並みの経済的な余裕のある生活が送れるようになっていきました。
そして私は、順調に中学1年になった頃から母親の手を借りなくても学校生活が送れるようになりました。
ようやく少しは母を楽にさせられるようになっていきました。
宗教の力も大きかったと思います。宗教の力は偉大だったと感じます。
その頃から私は歩行器に乗りだしました。
自分の足でいけるところが増えていきました。
トイレも自分で行けるようになりました。
工夫をしながら何かと自分のことは自分でできるようになりました。
やがて食事も自分の手で摂れるようになりました。(水分はなかなかできませんでした)
この頃ほど身体的自由を感じたことはありませんでした。
嬉しかったです。
でも私たちの幸せな生活環境は長く続きませんでした。
第3章へつづく