私の67年
第1章 幼少期
私は身体不自由者で、生まれつき身体に障害を授かりました。
私が生まれたのは昭和29年の秋,
淡路島の村で産声をあげました。
この頃は,戦後より、9年も経っていない頃だったのでまだまだ社会全体が貧乏な人が多く、科学や建物や設備等もこれからという成長時期でした。
私が生まれた頃は、産婆さんが家に来られてのお産が支流のようです。
未熟児でかつ、へその緒が首に巻きつき仮死状態で生まれてきたらしく30分ぐらい呼吸が止まり、心臓が止まり酸素が頭に回らないことによって脳性小児麻痺と言う障害を背負うこととなったのです。
もはや産婆さんは、両親に「残念ですが諦めてください」と最期となるような言葉を出され、手を尽くしてくれていた時に、父親はもうどうせダメならと、カンフル注射を私の心臓にめがけて打ち込んだそうです。
そんなことあり得る?という話ですが、おやじらしいといえばおやじらしく、その行動がなければ、今の自分はなかったのは確かです。
だから、生き返ってきました。
30分の間、紫色に変わっていた体がみるみるうちに普通の色に戻ってきたそうです。
その後の私は泣くこともなく、お乳は飲めず、体温調整も取れない状況が続いたそうです。
両親はその世話にとても、とても心労を重ねたそうです。
その頃は田舎で保温機等なかったので、 体温調整が “ やなぎごおり ” という衣装ケースに寝かされその周りに湯たんぽで体温調整をとってもらっていたらしくお湯が覚めるたびに交換が忙しかったそうです。
またお乳を飲めない私は、母親が時間を計り絞ってはインクのスポイトで飲ませてくれていたそうです。
その後いつまでたっても首が座らないので母親がおかしく思い淡路から大阪の大学病院に診察に行き結果、脳性小児麻痺と診断されたとのことです。
そう、私はそこから、障害とともに生きる人生が始まったのです。
以上が私の人生の出発点です。
障害のある身の私がひとり家庭にいると、田舎暮らしを続けることが難しいので3歳の頃に淡路から近い神戸に出ることになりました。
あらたな生活が始まりました。
それからも、本当に毎日が大変でした。
新居は借家で狭い間取りで、家族5人暮らしの上に障害者が生きていく上での設備もなく部屋の隅で座れない私は仰向けに寝る日々でした。
トイレもお風呂も食事も全部姉二人や淡路から一緒に出てきていたおばあさんのもと、世話になる日々が続きました。
生活をするためには両親は働きにでかけるしかなかったのです。
そこを、補うため、姉らに負担をかけることが、多くなってしまいました。本当に申し訳なく思う生活でした。
今から思えば本当に私は役立たずの世話をかける子供だったのかなと思います。
時を経るにつれて身体に脳性小児麻痺の特徴が表れてきました。
それは、手足の硬直が現れてきました。足を伸ばそうとすればするほど硬くなり身動きが取れない程になりました。
特にトイレに困りました。
脳性小児麻痺は緊張すれば緊張するほど体が動かないのです。
姉らが、私を抱えて付き合ってもらわないといけないからです。
自分自身で歯がゆい思いをし、気になることもありました。
その度に姉たちとおばあさんをよく困らせていたことを覚えています 。
ある日のこと姉に抱かれて表の空気を吸わせてもらっていた日のことでした。
姉もしんどかったと思います。
疲れてきたので縁側に寝かそうとした時にちょうど運悪く煮えたぎったやかんが置いてあり、私の硬直した手がやかんにあたり湯をかぶることになり、右手の肘あたりを火傷してしまいました。
私の体のせいでなったことなのですが、姉らは母親にひどく怒られていました。今でもはっきりと覚えております。
本当にその時は姉らに申し訳なく思いました。
声も出ない私は、ただ心の中でひたすら思うだけで、謝りたくても伝えきれないはがゆさを思ったことはなかったです。
本当にこれほどまで、障害のある身をつらく感じたことは正直言ってなかったです。
そんな日々を送っていくにつれて私も年を重ねると同時に自分が何とか動こうと仰向けに寝ながらせめて家の中だけでも移動しようと後頭部と足のかかとを使い一歩でも前に進もうと動いていました。
次第に少しずつ上に上がるようにして移動ができるようになってきました。
そんな姿を見た母親は「まるで蛇みたい。見世物小屋の見世物みたいやな。」と言われたこともありました。
でも私は一生懸命体を動かし、いつかは起き上がりお尻と足で移動できるように頑張ってやろうと思い、毎日暇があれば体を動かし頑張りました。
やがて少しずつ座れるようになりお尻と足を使い移動が出来るようになりました。
そうこうしているうちに私も小学校に入る時期が近づいていました。
母が情報を得てきました。今は、障がい者の通う場として浸透していますが、養護学校が近くにできたのです。