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父と母と女兄弟とボク

父が商売に手を出し、家族もはじめは順調に思われていたのですが
うまくいくにつれて、女の人に走り、そこにお金をつぎ込むようになり
やがて家にも目を向けず帰って来なくなりました。

ちょうど私が中学生になった頃でした。

母親も私が中学1年になる頃から私から手が離れていき、少しは楽になったと思って暮らし始めたところでした。

しかし、またもや苦労がのしかかるようになってしまいました。

商売の借金とか父の女性問題が、家計を苦しめ、またもや母が働かなければならなくなりました。

母は、毎晩長田まで焼肉屋のまかないとして働きに行くようになりました。

我が家には、借金の取り立てが毎日のように来ていました。

妹と二人で留守番をしていたがために嫌な思い出があります。

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障害のある私にも、その取立ての人との応対をせざるを得ませんでした。

ままならない口調ですが、対応していたことを今でも思い出されます。

皆さんが想像するようなヤクザ風の金融業者が取り立てに来ました。

裁判所から家具を差し押さえられました。

その当時は必死で正直に言えば怖かったです。

しかし、今思えば、いろんな経験をさせてもらえたなと思います。    障害者の私であってもドラマで見るような苦労の経験ができたことは良かったと思うのです。


そうこうしているうちに姉二人が嫁ぎ、家を出て行きました。

残されたのは私と母親と妹だけ。

そして父親といえば、行方不明となり残されたものはほったらかしです。
母親の稼ぎに出た分と私の年金での生活が始まったのです。

妹は中学校を卒業して、理容専門学校に行きながら少しのバイトをして生活を助けていました。

妹は専門学校時代に知り合った人との縁で、結婚することになりました。

残された私と母親は少し寂しかったけれど、今まで妹に苦労をかけていたので母親も許したのかもしれません。

妹の結婚式は、とてもとても自分にとっては大きな出来事となりました。

私が障害者であるということ。
だからかもしれませんが・・・

妹の結婚式の日取りが決まりました。
お祝い事だと思っててっきり私にも出席してほしいと言ってもらえることを期待して待っていました。とても、楽しみにしていました。


それが残念なことに。

母から言われた言葉が、本当に信じられませんでした。


「 結婚式の当日、お前は近所のおばさんと留守番をしていてくれ」と。


どれだけショックだったか。
本当に、がっかりしたことを今でもわすれません。

心の傷として鮮明に残ってしまいました。

なんでって、
母親は昔から私の存在を隠さず近所の人や社会的に表に堂々とだしてくれていたんです。
 ーーー 私の存在を認めてくれていたと思っていたのに。


 妹の結婚相手の家から私が出席することに対して拒否されたそうです。

この傷、どうしたら、わかっていただけるだろう。


その時こそは、生まれてはじめて自分の意思で。
母と妹に自分の気持ちを訴えました。

本当に、本当に、悔しかったのです。
心の底から叫びたかったのです。

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なぜ私が出席できないのか。
自分の妹の結婚式でしょ。
障害者だとしても
社会的にも兄でしょ。
あなたの唯一の兄でしょ。
人生の一度きりの祝いの場。今まで、けんかもして、共に成長して。
私なりのお祝いのその瞬間を共有し送り出したい。
そんな風に想ったらダメなの?

式場で手がかかるからだとしても、なぜ、相手側から拒否されないといけないの?

今後、繋がろうとする大きな輪に入れてもらえない。

この僕の心境・・・わかりますか。

おかしくないでしょうか?
障がい者ってそういう存在なの?

相手側の気持ちだけで私が出席できないのはおかしい。母親まで。

なんで、なんで。
最後の最後まで訴えました。

さすがの私も妹のある一言で言えなくなりました。
もう、感情も出し切ってました。


その一言とは、

「出席するのであれば、死んでやる」

でした。

もう、諦めるしかありませんでした。


今でも、その時の情景は目に浮かびます。心の片隅に焼き付いています。

本当に、悔しさがぬぐえません。


やはり、障害者って、社会にとっては・・・。

社会に目をやると障がい者の置かれる立場には、根深い、あってはならないもの。隠したいもの。家族においてのブラックなこと。

もしも、家族に存在するのなら、どんな目で見られるか。

障害者の存在を本当に、害とみる人たちの
“ 世間体 ”があるのだと痛切に感じました。


結婚式の当日は、留守番をしていました。
偶然にもその日に、テレビ番組で上方漫才をやっており、
結婚式の模様がありました。

その番組を見ながら涙を流していました。今でも覚えています。
本当につらかったです。悲しいというよりも複雑な心境でした。


妹が小さい時。私は、母親を奪っていました。
今度は、私が我慢をしなければいけないのだと思うようにしました。

障害者を隠そうとする人間の心理として、
世間体を気にするのは当然のことなのかもしれません。
仕方のないことだったのでしょうね。

話は前後しますが
母親にすれば障害者の知識も、ままならない時代に私が生まれました。

私が生まれて1ヶ月ぐらいに大阪の阪大病院に行き
〝 脳性小児麻痺 〟と診断を受けました。
先生から「この子は5歳ぐらい経ってようやく1歳の値打ちくらいだと理解してあげてください」と言われたそうです。
母は、先生の話から 知恵が少し遅れているのかと思ったようです。


そんな状況だったから、ずっと私は育つのが遅れているのだと認識されて子供扱いされてきたのだと思います。
両親、また周囲に関わる人からもそう思われ今日まで来たように感じます。

そのような環境の中で育ってきた私は、いつのまにか甘い部分とあかんたれの部分と心の強さが入り乱れた性格が形成されたのでしょう。


自分の意思を出すようになった時、家族からよく言われた言葉があります。

「 お前は障害者として生まれてきたのだから
            自分で何もできないのだから我慢しなさい 」

「 そんなに偉そうに言ったり、反抗したら何もやってあげない 」

と口癖のように言われ続けました。

そのため、いつの間にか気持ちが萎縮して中途半端な性格ができあがったのかもしれません。
そして自分を殺すことも覚えたのかもしれません。


でも私はそのような性格が嫌で自分自身の中では、

「 そのうち、今に見ていてください。 」

という気持ちが頭を持ち上げ 、闘争心を湧き立ててきました。

思春期を迎える頃のことです。
中学3年生の時のこと。
私は養護学校の生徒会長に立候補しました。

「 養護学校だからできることを実現したい。
       自分の想いを実現できるならなんでもやりたい」


しかし、その思いもまた、実現に至りませんでした。
どんなに重度障害者であっても、軽度と違い、出来ることは少なくても。

当然、平等に考えてくれるだろうと続けていたのですが、
養護学校ですら、差別があったのでした。

勉強のためのクラス分けや重度、軽度の区分けはありました。

立候補した時は、候補者は私しかいませんでした。
しかし、生徒会の顧問の先生が軽度の人を指名し立候補に仕立てました。

自分で、なぜダメなのか。重度だからいけないのか。言葉が伝わりにくいから?軽度より、手がかかるから?

本当に、この時ほど疑問と差別を身をもって感じたことはありませんでした。

幼少の頃は近所の健常の子供達と一緒に遊んだり、毎日のように私の家に食事の世話などをしてくれたり、そんな交流があったので差別と感じたことは一度たりともなかったのに。

このような世間体や同じ障害を持つ養護学校からの差別が浮き彫りとなったことを引き金に強く、強く、決意することができました。

「 障害者問題を少しでも解決する運動をしたい。
同じような立場の人たちにも光を当て堂々と叫べる社会となってほしい。」


やがてその事がきっかけとなり、なんとか自分で動けるようにと努力し、特製の歩行器を押しながら自分の足で歩き始め、トイレにもいざりながら自分で行けるようになりました。

そして高校生活の中では、極力、身体の状態のいい人について行こうと自分なりに努力し、周りの方々の援助や世話を極力かけないように頑張りました。

階段もお尻と足で1段ずつ登り、教室の移動も這いつくばっていきました。

そのような高校生活もやがて最終終わりが近づいてきました。
やがて社会人の一歩手前の時期。

状態の良い生徒は就職や大学へ進学する人もいます。
しかし、私のような重度の障害者となれば、施設に入所するか、在宅での代り映えのない生活、という選択しかありません。

かなり、悩みました。

その結果、私は在宅を選択しました。

自分で将来、何か事業をしようという夢もあったので卒業後は在宅に決めることにしました。

この偏見社会を少しでも障害のことを理解してもらい重度障害者でも何かの形で社会参加や自立を目指すための運動を始めようと決意したのです。

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