オナ禁記 847日目
無抵抗
最近、ポRUノにあまり抵抗していない気がする。以前は例えばコンビニで卑猥な雑誌を見かけたら「いかん!いかん!エROだ!目を背けろ!」ぐらいのテンションで日常生活を送っていた。
それでも日本にはそういうエROは溢れているわけで、ネットの際どい広告などを含めて、普通に生活していたら毎日そういうのを目にする。今まではそういうのを見かける度に神経を張ってしまっていて、無駄に自分を疲れさせていた気がする。
最近はそういうのを見かけても、「あ、エROだ。」ぐらいに思うようにしている。「どこまでがエRO禁アウトなのか」といった明確なラインは設定しないで、とにかく「自分の意思でポRUノは見ない」こととして、ムラムラしたら現実の女性に行くことにしている。
ポRUノの中の女性
童貞の頃の僕は女性とは全く接点が無くて、女性について学ぶ資料がポRUノしかなかった。彼女と同棲を始めてようやく、女性経験の少なかった頃に思い描いていた女性像がいかにファンタジーだったのかを知ることになった。
現実の女性は気分の浮き沈みがあるし、女らしくないこともする。はっきり言って一緒にいるとすごくイラつくこともある。そりゃ人間だから当たり前なんだけど。
当然ながら、ポRUノの中の女性は虚構だ。ポRUノの中で女性は、彼女の中のエロスを抽出され、誇張され、ユーザーに届けられる。
カメラとマイクで抽出できるエロスは五感のうち「視覚」と「聴覚」だけであり、それら二つの要素を最大化するために、コスプレとか、シチュエーション、○吹きだとか、あらゆる手が尽くされている。
そういったポRUノの影響で、昔の僕はかなーーーり独りよがりなセクロスをしていた。自分の快楽と相手の快楽をイコールでつなぎ合わせていた。それでいて、自分の快楽は視覚に依存しているので、女性が不快な体勢を取らなければならないことがあり、今思い返すと申し訳ないことをしていたと思う。
それでいて「自分はセクロスをうまい」となぜか思っていて(本当にどこを見てそう思ったのだろうか…)、救いようの無い奴だったと反省している…。今もセクロスは勉強中で、奥が深い世界だと思う。
「ポRUノを見ないこと」は僕の現実のセクロスの技術向上に寄与した。視覚重視のセクロスの世界から五感の世界への移行は、480Pと2K画質ぐらいの世界の変化だった。
女性を昇天させるのは、難しいし、面倒臭い。けれども、それは自分の部屋やトイレでシコシコすることよりも何倍もやりがいのあるタスクだ。
そういった新しい世界に出会えたのも、オナ禁のおかげかもしれない。