DVD版「祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~」についての戯言

先日の2014年6月23日に、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出「祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~ KERA version」のDVDを観ました。
この映像自体は昨年の10月にNHK-BSで放送されたのだけど、放送禁止用語と性描写の部分がカットされた不完全版で、今回のDVDでようやくこの超大作の全貌を再び確認することが出来ました。

収録されている公演は12月19日。
俺は実際の舞台を、当時やってた仕事の年末調整をしつつ、28日の公演を観に行きました。
全3幕芝居の休憩込みで4時間10分、DVDも本編だけで3時間50分ある。

まず、この作品の制作発表がなされたとき、俺はいたく感動した。
KERAさんのツイートを引用させていただくと…
『「祈りと怪物〜ウィルヴィルの三姉妹〜」の発想は、ガルシア・マルケスが「カラマーゾフの兄弟」みたいなものを書いたらどんなものになるか、というのが発端。』
…なんか、雷が落ちたような気がした。
好きな作家同士の、好きな作品だけど、名作だし古典だし文豪だしで、それを組み合わせて、自分のオリジナルを創る…そしてそこに作家としての自分のプライドと責任が加わる。
「そうか、作家は何書いても良いんだ、どう考えても良いんだ…」と思った。
もちろん、ある種の傲慢さと、作家としてのプライド、何より制作者としての技量…それが兼ね備わった人じゃなきゃダメだけどね。

当時抱えてた問題のせいで、記憶があいまいなのだけど、実際の舞台は感動と物足りなさ、両方があった舞台だった。
当時はなかなかその正体がつかめなかったのだけど…。

去年の後半、長期休養をしていた時期にこの作品の戯曲本を何遍となく読み返した。
KERAさんの戯曲の中でも、「カラフルメリィでオハヨ ~いつもの軽い致命傷の朝~」より読んだ。
この戯曲本はKERAさんが書き上げた台本のノーカット版+αで、KERAバージョンの延長線としてほしいとのこと。

あ、知らない人のために注釈しておくと、この「祈りと怪物」という作品は、Bunkamuraのシアター・コクーンで2012年~13年にかけて、KERAさん自身の演出バージョンを12月に、蜷川幸雄演出バージョンを1月に上演する、演出対決として企画興行されたものです。
蜷川版は映像化されていないので、チケットが取れなかった俺は観られていない。

なので、この文章は、あくまで『ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出作品』について書きます。

まずは複雑な粗筋を簡潔に…。

なので、未見で観る予定だったり読む予定のある人は回れ右。

ウィルヴィルという名前を持つ、架空の島の架空の町。
そこは横暴な権力者ドン・ガラスが支配している。市長も警察も、ガラスには逆らえない。
ガラスの祖父は、息子(=ガラスの父)が酷い目にあった時に加害者たちに制裁を加え、その家族には焼印を押し、以後永劫に身分を1つ下ランクである「ヒヨリ」と呼ばれる階級に仕立てた。
ガラスは執事長のヤルゲンや娘たちと共に夜毎強奪を繰り返し、市民を暴力で支配していた。
3人の娘はそれぞれ事情を抱えている。
長女・バララは教会の司教グンナルと相思相愛でありながら正直になれない関係を続けている。そこには、ガラスの妻が教会の熱心な信者であったが早くに逝去した…というガラスの教会への、神への侮蔑がある。
二女・テンは港に流れ着いた漂流者ヤンにぞっこんである。だが、このヤンとてただの男ではない。密航者であり、寄港していた船の船員全員を殺し、三姉妹の祖母、ガラスの母親ジャムジャムジャーラを海に突き落として助け、偶然を装ってこの家に取り入った。
三女・マチケは奔放でワガママな性格であり、動物園に勤務しているトビーアスに恋をするも、素直ではいない。ガラスはその様子からトビーアスの兄貴分の友人で教会の使徒のパブロとの関係である、と勘違いを起こしている。因みにトビーアスの祖母はジャムジャムジャーラから恋人を奪われたドンドンダーラである。
パブロは、貧窮している事態に甘んじているトビーアスと違い、なにか大きな「強い」男になることを願っている。恩師である教師のペラーヨが地下組織と共にガラスの失墜計画を工作していることを知れば加入を申し出、断られてしまうと、運命的にトビーアスと共にガラスの手下になると、今度はペラーヨの情報を売る。
ペラーヨはガラスの後妻であるエレミヤとつながっている。しかし、お互いに上手くはいかない。
エレミヤは過去にガラスが他の権力者から財産ごと奪い取られてやってきた。その時に一緒にやってきたメイド長のメメは、元コック長で今はガラスの手下のアリストと死んでしまった息子への思いを断ち切れない。
ガラスの手下になった時にアリストに連れられて行った仕立屋で、主人のローケの娘、レティーシャにパブロは惚れこんでしまう。
町に錬金術師を名乗るインチキな興行主のダンダブールとその助手で白痴のパキオテが、司祭グンナルを取りこんで、万能薬という名のパキオテのまじないがかかったライ麦粉を売りさばく…。

と、ざっとここまで書いて2幕目まで。
3幕目まで書いてたら疲れてしまう。
解説していく中で書くかもだけど。

モチーフとしてはガルシア=マルケスmeets「カラマーゾフの兄弟」×「三人姉妹」。そこにロバート・アルトマンに代表される群像劇、ヴィジュアルイメージはイタリアンで、登場人物名はラテンアメリカで…物語るはギリシャ悲劇のコロスたち。

俺の中では、この作品は二律背反している。
大好きだけど、飽きてしまう。
冗長で長すぎるけど、あっという間。
目標であり反面教師。

例えば。
19人も主要人物がいるのに、殺すの場面以外で一同が、少なくとも十人くらいの人物が一堂に会する場面がない。カタルシスが弱い。それはギリシャ悲劇をモチーフにした演出を取り入れた演出で、わざとクライマックスをヴィジュアルではなく「報告者」の語りで見せる「冒険」に出ていたりするからで。
ウィルヴィルという、町の物語だけど、俺には町の描写が弱いように思えて仕方ない。

それと。
「祈り」と「怪物」について。
ウィルヴィルを崩壊へと導くのは人びとの「祈り」である。幼い子供を亡くしたアリストとメメ夫婦は祈りをささげて失くした子供に再会し、祈りをしなくなったとき「祈り」は「怪物」に変わる。
「祈り」をつかさどる司祭のグンナルは「祈り」を捨てた瞬間、「怪物」となり、婚約者のバララに「殺してもらう」。
ラスト、「祈り」の入ったライ麦粉を呑んだがために三人姉妹は「怪物」によって石にされてしまう。この展開を急激な、唐突な展開にも感じたが、伏線は4時間かけて張ってあった訳だし。
ウィルヴィルの人々にとっての「怪物」・ガラスと「祈り」をしなかった仕立屋のみが生き残るラスト。

テーマに深度があるけど表面をなぞっただけにすぎない気もする。
登場人物が個性的だけど、ステレオタイプにも感じる。
深くて浅い。
4時間が短くて長い。

それでも。
俺はこんな巨大な作品を書きたい。
やるなら、ギリシャ悲劇じゃなくて、パイソネスクでやるけど。

以上、まとまりがつかない個人の意見が混じってきたところで、祈りと怪物に関する俺の感想文、ひとまずおしまい。

…あとで改稿するかもだけどね。

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