[groovisions 100 works] 「水色」シリーズ
groovisionsのデザイン・アーカイブをテーマごとに解説していく企画です。登場人物はgroovisionsのメンバー。第4回目は通称「水色」シリーズについて。
ルールとスタイル
伊藤 今回はHALFBYからはじまる一連のアイソメトリック的なモーショングラフィック、通称「水色」についてです。
住岡 動画としてはHALFBY(日本のDJ)のミュージックビデオとして制作したのが最初ですが、それ以前にもグラフィックとしては結構いろいろと作ってたような気がします。
原 たしかにCasa BRUTUSの無印とかモスバーガーとか、古いとこだとマイケル・ヤングだとか、いろいろと作ってましたよね。
住岡 だからフォーマット自体は特別新しいものでもなんでもなくて・・・
伊藤 でもHALFBY以降の一連のシリーズになるとどこか共通したトーンが確立するじゃないですか。そこにはいくつかのルールが?
住岡 まず角度は守っていますね。それがルールというか基本フォーマット。
伊藤 そうだよね。むしろそれだけですよね?
住岡 フォーマットとしては角度の指定だけだけど、一方でスタイルとしては色はベタ塗りで、みたいな。
伊藤 輪郭線がないとか?
住岡 輪郭線ないとか。影つけないとか。
伊藤 ああ、影ね・・・
住岡 基本影はつけない。一応そうしたルールはあります。
原 光源がない感じですよね。どっちかっていうと。
伊藤 このシリーズって、ある意味とても特徴的なんだけど、ルールがあるようで意外とそこはシンプルで、例えば色味とかリズム感含め結構感覚的につくっているわけじゃないですか。
住岡 まあ、ものによっては、カラーパレット作って、この色しか使わないとか決めている時もあるけれど、まあ感覚的ですね。動かし方に関しては、何秒かのループが基本になってたりはしますけどね。ただ、それだけじゃストーリーが動かないというか。
伊藤 つまり、フォーマットが特別新しいわけではなくて、ルールやスタイルもあるにはあるけど厳格な訳では無い。だけど観る人の多くは一連のシリーズだと認識できているという。
原 そのシリーズ感って、いろいろなニュアンスの複雑な積み重ねで成立しているような気がしますね。今では動画含めてアイソメ的なデザイン表現は巷に溢れているわけですが、そのなかでも依然としてアイデンティティが主張できている不思議さというか。
住岡 まあ、そういう世界観なんでしょうね・・・
増殖する「水色」シリーズ
伊藤 そうしてはじまった「水色」シリーズではあるんだけど、クライアントや案件を飛び越えてどんどんと増殖していくわけですが。
住岡 最初にクライアントがはっきりした商業的な企画としてはじまっていたらこうはなっていなかったかもですね。バリエーション作って、クライアントが違っても、みたいなのってのほんとはやりにくいじゃないですか。
原 そこはなかなか微妙なところで、クライアントのために作った作品なのか、それとも作る側のスタイルなのかっていうのは明確な線引ができないですよね。
伊藤 そうそう、それがいい意味でさ、これが自分たちのもので、自分たちのスタイルで、というふうに展開できた。
住岡 最初に作品として自主制作でDVD出したっていうのがいちばん大きかったですね。あとはミュージックビデオだったからわりと作家性が主張できたというか。当初、HALFBYがインディーズで融通がきいたのも今考えるとラッキーだったと思います(*HALFBYは2006年にトイズファクトリーよりメジャーデビュー)。
伊藤 そこからHALFBYの5連作ができて、以降は農水省とか東京マラソンとかのメジャーな案件まで拡張していったという。
住岡 そのあとはですね、やっぱり、「あのスタイルで」というクライアントのリクエストにひたすら答えていった結果現在に至るという・・・・・
原 そのアーカイブの蓄積ってものすごく大きくて、構造が同じだからスキンが変わっても一連のシリーズだと言えてしまう。Firefoxのやつとか、エルメスもそうでしょう?馬のスカーフとか。
伊藤 やっていること自体はすごくシンプルで、ルールも明確に決まっているのはオブジェクトの角度くらいなんだけど、そうやってバリエーション増やして、スキン変えて、HALFBYからエルメスまで、20年以上しつこく増やし続けているわけでしょ。そこがものすごく面白いと思っていて、その蓄積こそが一番価値のある部分だと思うわけ。
顔がない
伊藤 この「水色」シリーズが多くの支持を得たきっかけとしてニコニコ動画って結構大きかったと思うんですけど。
原 「中曽根ティーチャー」ですね。HALFBYの動画を、仲間集めてリアルで再現、中曽根OFF会と称して実写版を制作する人が出てきたと。
伊藤 今回、前段でひたすらルールなし、みたいなこと繰り返したけど、この一連のシリーズの特徴には人間表現がかなり個性としてあるような気がしていて、人物表現じゃなくて。その一つとして顔がないことをあげておきたいんです。まあ、ざっくり最初に言っちゃうと顔がないからニコ動が盛り上がったという仮説なんだけど。
住岡 顔がないのは別に、そんな意味がなくて・・・・これって、いかに単純化していくかっていうことじゃないですか。ピクトグラムまではいかないにしても記号として、木は木、人は人、車は車・・・一番少ない手数っていうか、単純化していくっていう。
伊藤 人という類型にしたってことでしょう?ある個性を持った、「個別性」ではなく類型というか。
住岡 人の中でもロールを識別できるぎりぎりのところですかね。例えば、服装がサラリーマンだったり、看護師だったり。類型を識別できるぎりぎりのところまで単純化した。
原 例えば「ウォーリーを探せ!」(1987年にイギリスで出版された絵本のタイトル)みたいな「ウォーリー」という名を持ったキャラクターではないってことで。
住岡 ではないですね。
伊藤 そこがけっこう大きいと思っていて。顔があったら、ニコ動の人たちが実写作ったりする広がりはなかったような気がするんだよね。顔がないからこそ、シンプルなポロシャツと変な動きだけで誰もが主人公の水色になれるというか。
住岡 そういえば今思い出したけど、これ最初に作ったときに、Preiserってジオラマのフィギアがあるじゃないですか、ミニチュアのやつ。あれみたいなやつをなんか作れないかな、と思って、あれもたしか顔がないんですよ。
原 人間表現としてはキャラというよりは結構リアル寄りのバランスだったりしますね。スケールも小さいし必然的に顔の描写は難しくなる。
住岡 フィギアに状況設定はあるから少しは個性はあってもよさそうなんだけど・・・
伊藤 個別性はないと。
原 チャッピーも似たところありますしね。
伊藤 チャッピーも顔はあるんだけどみんな同じだから無いとも言えて。洋服や髪型で精一杯個性を主張するんだけど、顔がないのでどこまでいっても個別性は担保されない。でも個性はあるというへんなやり方なんですよね。
原 水色もそういったところありますね。服装も平凡で人体バランスもリアルっぽい。顔がないからキャラとしても個別性はないにもかかわらず、変なダンスと行動で強烈に個性をふりまいているという。どこかムズムズするような居心地の悪い奇妙さがニコ動の実写化を促したと?
住岡 まあ、そういうことにしておきましょう、仮説として(笑)。
個別性と記号のあいだ
伊藤 一方で、個別性がないからこそできていることはたくさんあって、「私」ではなくて「我々」的な表現がやりやすいので、例えば農水に代表されるマニュアル的な映像、状況や事象を解説するような表現はものすごく向いてると思うわけ。
住岡 農水みたいなインフォグラフィックス的なものは、顔があるとできないですよね。誰でもない人だから成立している。
原 かといって本当に記号的な動くピクトグラムを作って物事を解説することもできるし、容易に想像できるんだけど、それはまたそれで別の表現になってしまう。「我々」感も失ってしまうというか。
住岡 まあ、そういう記号とか個性とか個別性とかのギリギリのところを探しているところもあって、そこはなかなか説明ができなくて・・・言語化が難しいんですよね。水色でいうとやっぱりキャラがなさそうな人たちがキャラを持っているところが面白いとは思うんですよ。
伊藤 そういうチューニングの繰り返しあってのものだから、似たようなものはできてもなかなか真似できないんじゃないかな?一連のHALFBY的な映像ってわりと明確でクリアなものかな?と思ってたけど結構複雑な話になりましたね。主人公の水色みたいに個別性がなくてもキャラが成立するし、むしろないからこそ逆にキャラ立ちが強烈っていう逆説ってわりと面白いテーマだと思うよ。