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マーヴィン・ゲイが一緒に迷ってくれた|私に魔法をかけた曲
マーヴィン・ゲイが偉大なシンガー/音楽家であること。
いつからかそれは、教科書で読む歴史のような意味合いで私の中にありました。
さまざまな『教科書』には、数々の彼の代表作が紹介されていますが、私が彼の歌を「偉大なシンガーの歴史的な作品」という以上の実感で受け取るようになったのは、長く発表されることのなかったアルバムの中の一曲からです。
1967年、すでにモータウン・レコーズのスター・ソロ・シンガーだったマーヴィンは、「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレープヴァイン」を録音、キャリア・ハイのヒットを記録します。
ノーマン・ウィットフィールド作の重い曲調を持つこの曲は、当初モータウンの制作会議で撥ねつけられますが、ウィットフィールドの画策で発表にこぎつけました。
パートナーの不貞をなじる歌詞が、20歳で結婚した17歳年上の妻、アンナ・ゴーディへのメッセージとも受け取られることを考えると、会社の反対も致し方ないかもしれません。
モータウンのドル箱として会社から受けるストレス、社長であるベリー・ゴーディJr.の姉アンナとの崩れつつある結婚生活、生来の依存癖を遠因とするコカイン常習と過大な浪費、さらには最高のデュエット・パートナーであったタミー・テレルを失い、彼はこの先の自分自身をどうしたら良いのか、混迷の中にあったはずです。
もともとフランク・シナトラをアイドルとし、クルーナーでスタンダード・ナンバーを歌うことに憧れていた彼としては、ポップ・シンガーとして消費されることへの不安はデビュー当初からあったことでしょう。
時は60年代終盤、アメリカのみならず世界が置かれた状況は、ポピュラー音楽界にもさまざまな影響を及ぼしていました。
ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェルなどが自作自演したメッセージに、彼も反応していたのは間違いありません。
1969年5月、カリフォルニア州バークレィの公園で起こった「血の木曜日事件(※1)」を目撃したレナルド・オービー・ベンソン(フォー・トップス)は、大きな衝撃を持ってレーベル・メイトのアル・クリーヴランドと話し合いました。
What's going on this country?
ーこの国でいったい何が起こってるんだ?
この衝撃をもとに二人が作った曲にマーヴィンが興味を示したのは、弟フランキーからの手紙で知るヴェトナムでの悲惨な戦争、公民権運動の複雑化と先鋭化、政治への不信などが背景にあったのだと指摘されています。
これらをコンセプトに、「ワッツ・ゴーイン・オン」は生まれました。
社会への意識提起と同時に、この曲から実父に対するストレートで悲痛なメッセージを読み取る向きもありました。
ねえ父さん、これ以上エスカレートしたくないよ
わかるだろ? 争いからは何も生まれない
愛だけが憎しみを超えていける
これからのために、一緒に方法を見つけなきゃ
エキセントリックで生活不能者だった父から受け続けた虐待行為と母からの溺愛は、終生にわたって彼をスポイルしました。
麻薬禍、奔放すぎる性嗜好、止められない浪費などの原因をそこに見るのは間違いではないのでしょう。
思うに彼は、自分の外部への反発と依存の繰り返しの中で、自立を渇望しながら結局はそれを果たせなかった男なのかもしれません。
シングル「ワッツ・ゴーイン・オン」のヒットを受けて制作された同名アルバムも高評価を得て、マーヴィンは翌72年に前作のコンセプトを踏襲する作品に取り掛かります。
ここでもまたリード・シングル候補曲に難色を示したゴーディ親分。
「ユー・アー・ザ・マン」と題された曲は、その年にあった米大統領選でニクソンと争ったマクガヴァンに呼びかける内容でしたから、当時のポップ・ミュージック製造工場としては当然かも。
結果、シングル・セールスは思惑をはるかに下回り、意気消沈したマーヴィンはほとんど完成していたアルバムの企画をお蔵入りとします。
その中の一曲に「ホェア・アー・ウィ・ゴーイン?」がありました。
私が最初にこの曲を知ったのは、デトロイト出身のトランペッター、ドナルド・バードのアルバムで、でした。
マイゼル兄弟(※2)のスカイ・ハイ・プロダクションズが中心となって制作された曲だけに、アルバムの発表が無期延期になったところでマイゼル(兄)のハワード大学時代の恩師・バードへと情報が流れたのではないかと推測できます。
その後、このアルバムの楽曲はベスト盤やリイシュー盤にボーナス・トラックのかたちで、バラ売りのように収録されることになります。
私自身がマーヴィン・ゲイが歌ったヴァージョンを初めて聴いたのも、「レッツ・ゲット・イット・オン」デラックス・エディションでのデモ音源でした。
「これ、マーヴィン・ゲイが歌ってたんだ」
明けても暮れても仕事にかかりきり
来る日も来る日もどこかで戦争が続いてる
毎日まいにち彼氏と彼女はどこかへ出掛けて行く
毎日まいにち子供たちは赤ん坊を産み続ける
ねえ、どこへ行くんだい?
未来はなにを示しているの?
教えてよ、ぼくらはどこへ向かっているの?
一聴してわかるとおり「ワッツ・ゴーイン・オン」と共通するテーマであり、彼の歌唱も抑えめながら同一路線と言えます。
しかしこの曲は私に、それまで聴いた彼の曲よりも深く、自分に共鳴するものを感じさせました。
なにかを強く訴えているわけではなく、淡々と語りかけるように、「わからない」と言っている。
複雑な世界の中で行く先を探している。
いま、自分が迷っているのと同じように彼も迷っている。
もちろんそれは聴き手が抱く錯覚です。
けれどその美しい錯覚を人びとが持ち続けるゆえに、ポピュラー音楽は、広く強く支持を受けているのだと思います。
聴き続けながら、この曲は私にとって大切なものになりました。
この埋もれたアルバムは2019年、マーヴィン・ゲイ生誕80年/モータウン・レコーズ創設60周年の節目に、新たなミキシングを施されて発表されました。
ここで歌われる迷いや嘆きや疑問や諦念は、世界中の市井の人びとのものであり、半世紀を経たのちもなお、変わらずここにあります。
その後マーヴィン・ゲイは、当時高校生だったジャニス・ハンター(※3)との出会いにより、その心情をさらけ出して性愛路線にベクトルを向け切った「レッツ・ゲット・イット・オン」〜「アイ・ウォント・ユー」を制作します。
51歳の妻と17歳の恋人との間で、今度は愛欲の泥沼に自ら沈む34歳のスーパー・スター。
ようやくアンナと離婚でき、その顛末を昇華したようなアルバムを慰謝料支払いのために制作。
当然モータウンから見放され、アメリカを逃げ出してベルギーでの隠遁生活。
多額の税金滞納によって内国歳入庁から受けた破産宣告。
熱烈に愛したジャニスにまで向けた精神的虐待。
控えめに言って、碌なもんじゃないです。
たまたま出会ったローランドTR-808(※4)で創った「セクシャル・ヒーリング」大ヒットによる復活。
そして1984年、悪夢のエイプリル・フール(※5)。
最期まで迷い続けて、周囲に自我を振りまいて、素晴らしい音源を残してくれたシンガー。
自覚的であったかどうか、弱さも強さも才能も甘えも、まるごと音楽に捧げたひと。
70年代後期以降、少なくともソウル・R&Bの分野で彼から何らかの影響を受けなかったシンガーはほとんどいないと言えます。
私が彼の作品中、アルバム単位で一番好きなのは「アイ・ウォント・ユー」です。
曲、演奏、音響、歌唱のレベルの高さ、なにより「いまこれを表現しなくては」という切実な情熱(それがエゴイスティックなものであるにしろ)がパッケージされているところ。
この「ある男の愛と欲のコンセプト・アルバム」も、機会があったら聴いてみてください。
(文中敬称略)
※1:1969年5月15日、カリフォルニア大学バークレィ校敷地内の公園建設予定地を巡り、約6000人の学生・地元市民と警官・州兵が衝突、市民側に120人以上、警察側に110人以上の死傷者を出した。
警察側が市民に対して散弾銃を実践使用した事件としても有名。
※2:フォンス・マイゼル(兄)とラリー・マイゼル(弟)による音楽制作チーム。
当時フォンスはモータウンのソング・ライターとして活躍、のちにチームとしてブルー・ノート・レコーズで名作を連発する。
※3:デトロイト出身のミュージシャン、スリム・ゲイラードの娘。
父とともにスタジオを訪れた際にマーヴィンに一目惚れされ、のちに二番目の妻に。
※4:「ヤオヤ」の愛称で世界中で愛されたドラム・マシン。
マーヴィンがこの名機を使ったのは、経済的な困窮でレコーディング費用やミュージシャン・フィーを支払えなかったからとも言えるが、結果として本機を使用しての先駆的なヒットとなった。
※5:1984年4月1日、ロサンジェルスの両親の家で父母の諍いに割って入ったところ、激昂した父親に拳銃で撃たれてしまった。
翌4月2日は彼の45回目の誕生日になるはずだったのに。