ドラフトライター
Op.01 ワラスボソフト
多分僕はファンタジーの才能がないのだと思う。
今となっては「古風」とか「コスプレ」とか言われるような濃紺のスーツに身を包んで入力コンソールに猫背で向き合っていると、時々離れたところから若者の嘲笑だの好奇の視線だのが突き刺さるようで痛い。しかしこうしていないと気分が出ないのだから仕方ない。50年前のサラリーマンのスタイルを恰好だけ踏襲した僕は、猫背をさらに丸めて冷凍剥きエビのようになりながらモニタに浮かび上がる文字に集中する。オリジナリティだの創造性だのを至上とする現代にあって、こういう恰好だって世間に受け入れられて然るべきではないのか。虹色の毛玉みたいな猫耳の連中となるべく目を合わせないように、空中に浮かぶモニタの透過度をそっと下げた。
人類がオンラインネットワーク上に意識と日常生活の大半を引っ越してから四半世紀経った。もはや「電脳」などという古語に頼らずとも我々は肉体から解放され想像の世界に生きていた。現代では想像力が世界の限界を決める。クオリア-オートビルド コンパイラ(QuckerⓇ)の登場で、想像さえすれば大抵のものが手に入る桃源郷にあって、人類は自らの想像力の乏しさ、凡庸さに打ちひしがれることになった。『我々はなんでも欲しがったが、しかし何も欲しくはなかった』と、かつてすべてを手にした国の大統領は芝居がかった調子で言っていたが、当時の記者連中はそんな台詞は歯牙にもかけず、合衆国の没落と私企業による支配拡大をひたすら懸念するだけの無意味なコラムを連載するばかりだった。
実際のところあの神経質そうなマダムの言ったことは的を射ていた。我々は電脳世界に自由を求めたが、自由というのは思ったより無個性だった。ファストフードが大体2, 3種類の味付けに収束しているのと似ている。美味いものを想像すると、特別な才能のない人間が思い描くのは、糖質、塩分、動物性油脂の3種をそれぞれ尖らせただけの劇的で単調な味付けなのだ。我々の電脳アバターの容姿さえもまるで示し合わせたように3パターンに収束していた。青少年、動物、ロボット。動物ベースだとしても基本がヒト型になるのは運動/感覚信号のキャリブレーションのために仕方のない面があるにせよ、毛のない生き物になる人間がこれほど少ないとは予想できなかった。つるつるした表面のアバターはロボット派に集まっていて、レプタイル型のユーザーはロボット派ともケモノ派とも相容れずに孤立を窮め、いつしか日向の世界で見なくなった。黎明期は寧ろ多種多様なアバターが跋扈する百鬼夜行の世界だったものだが、人間がこれほど同調圧力に弱い創造性の欠けた生き物だったとは。
かく言う僕もつまらんヒト型のベースアバターを使っている無個性集団の一員なのだが、僕はこれでも黎明期からのコアユーザーだ。僕がQuckerから作り出したのはサラリーマンコスプレだけではない。今トストスと押下しているタイプライター風コンソールに、目に鮮やかな青いオフィスチェア、真っ白で四角いだけのデスク。研究に研究を重ねて生み出したそれは当時の多くのデスクワーカーに普及していたという什器類だった。今となっては固定物理オブジェクトとしての「家具」や「作業場」の概念は完全に衰退し、いつどこでも作業を開始できることが当たり前になっていた。そんな世界で毎日決まった場所に物理オブジェクトを展開しては「仕事」をしている僕はこの世界で浮いていた。四角いデスクに向かってこぢんまりとした椅子に腰掛けながらする僕の仕事のスタイルは世間一般には奇怪らしく、周囲からは未だに奇異の目を向けられている。仕方ないのだ。人類はどれほどテクノロジーを発達させても仕事を完全に放棄することはできなかった。人々は娯楽としての仕事を最大限楽しむため、ある者は宙に浮かびながら、またある者は七色に光りながら思い思いのスタイルで仕事を楽しんでいる。私のように骨董趣味に傾倒して100年以上前のサラリーマンという業種のコスプレを楽しむ者も当然出てくるというわけだ。
頭上を通りがかった鳥人間に怪訝な顔で見られているのに気が付いて、書きかけのコラム記事を展開している21世紀風の仮想ディスプレイに向き直った。
後ろに伸びをして鳥野郎がどこかへ飛んで行ったのを盗み見ると、オフィスチェアがギイ、と音を立てた。僕は構造上のディテールにもこだわって設計する凝り性で、このオフィスチェアもわざわざ100年前の一次資料にあたって細やかに作り上げた。
ところで私の仕事はライターだ。100年前でいうところの雑誌編集者といったところか。私は空間転移旅行にまつわる様々な情報をまとめて公開する仕事をしている。シンギュラリティ以降、様々な職業が段々と磨耗して消えていき、100年経って残ったのは娯楽を生み出すクリエイティブ色の強い仕事ばかりだった。人間が勝てたのは結局、人間の心の餌になる情報の“味付けの美味さ”だけだったということだ。世界を網羅する汎用ネットワークが日々自動生成するニュースは最早誰も気に留めておらず、人々はわざわざサービス料を支払ってまで私の書く『情報』を食べにくる。
しかしそれにしても、アルファケンタウリ星のワラスボソフトなるものが本当に彼等の心の滋養になり得るのだろうか。仮想ディスプレイに映し出された禍々しい塊を薄目で見ていると嘔吐のイメージが想起される。私は毎号、人類のテラフォーミング先である各惑星におけるゲテモノ料理を紹介するコラムを書いているが、今回のこれは今までで最悪のビジュアルをしている。真っ白で滑らかなソフトクリームの上にワラスボなる粘液を纏った魚類が鎮座してこちらを見つめているのだ。古い言葉で虚ろな目つきを「魚の死んだような目」と言うらしいが、この画像のワラスボは寧ろまだ生きているのではないかと思われるほどの爛々とした双眸を向けている。鮮度の高さが自慢です、と店長のコメントが添えられているが、まさか-80度のソフトクリームの鮮度を言っていることは無いのだろうから“その上のトッピングが死にたて”という意味なのだろう。死後あまり時間の経過していない魚類というのはトッピングとして間違いなく高級品ではあるが、ソフトクリームと合わせたのは些か無茶だったのではなかろうか。
現代において「死にたて」の食材は旧世界にも増して特別な意味を持つ。医療が高度に発達し過ぎた現代では死は万人に与えられた最高の娯楽の一つであり、それは他の動物の死の価値すらも高めた。最も高級とされる料理は動物を育て殺すところまでも食事の過程として組み込むそうだ。こういった価値観を退化主義として蔑む者も少なくないが、代謝支援ネットワークが勧めてくる理想栄養食はあまりに変化に乏しく、食事に快楽を求める者はさらに刺激的な食事法へと歩を進めていった。その道の途上にあるのが私のコラムでもある。私とて食に興味が無いわけではないが、流石にこの絵面を見てしまった後では手放しで彼等に賛同はできない。