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どうしてこの人、note辞めちゃったんだろう。
あるときnoteの街で見つけた、2000もスキが付いているステキな記事。
わぁ、良い文章だな。
どんな人が書いているのかな。
とプロフィールを見に行くと、最終更新は2年前。
またあるときKindleで「noteの楽しい続け方」に関する本を読んで、うんうんと頷いて。
嬉々として著者のもとに駆け付けると、その人が続けていたのはTwitterだけで、noteはとっくの昔に更新しなくなっていた。
こんなとき、心がキュッとなって。
言いしれぬ緊張感が、一瞬、巡る。
あれ。
なんでだろ。
どうしてこの人、note辞めちゃったんだろう。
野暮で余計で下世話でも、知りたくなってしまう。
それはきっと、どうしてもこれが、自分にとって無関係だと思えないから。
ただ、何となくその理由は想像がつく。
「疲れた」んだろうなって。
「単に "飽きた" からでしょ」と言う人もいるだろうけど、やはりその始まりは「疲れた」だと思う。
疲れて、情熱を失って、飽きたから、辞めた。
もしくは、疲れたから、辞めた。
きっとこのどちらかなのではないかな。
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私には、
「noteがSNSで良かったな」と思うときと、
「noteがSNSじゃなければな」と思うときが、両方ある。
自分の記事が読んでもらえたとき。
反応をいただけたとき。
喜んでもらえたとき。
私は「noteがSNSで良かった」と感じる。
きっとブログでは、こうはいかない。
私の記事が読んでもらえるのは、noteという「街」の路上に、それを置かせてもらっているから。
じっと見る人、話しかけてくれる人、チラ見の人。
色々だけど、とにもかくにも、読んでもらえる。
だから書こうと思える。
そこには、SNSとしての正の側面である「つながる喜び」がある。
一方で「noteがSNSじゃなければな」と思うこともある。
誰かと比較してしまったとき。
思うように反応がもらえなかったとき。
もっと何かが欲しくなってしまったとき。
noteの街は、ふとしたときに自分に何かを突きつけてくる。
心の弱みに入り込んでくる。
ときに「通知を観たくない」と思うことさえある。
これは、SNSとしての負の側面である「収まらない渇き」だ。
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最初、私たちのnoteは「渇き」から始まる。
あの人みたいに書きたい。
もっと読まれたい。
スキがほしい。
発信を続けていくと、だんだんと読んでもらえるようになる。
そのとき、「渇き」を潤すように「喜び」が湧き上がってくる。
たのしい。
書くのがたのしい。
noteがたのしい。
でも「渇き」は一時的に見えなくなっただけで、収まってはいない。
書き続けるほどに「喜び」はその鮮やかさを失っていって、決別したはずの「渇き」が再び、頭をもたげてくるのだろう。
そんな「SNSらしさ」に、心底「疲れた」と感じてしまったら。
「あんなに好きだったnote」から離れていったこの人の気持ちも、少し、わかる気がするな。
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