ストリップと私
ストリップを見るのが好きです。今年に入ってから、足しげく劇場に通うようになりました。
初めてストリップを見たのは、5年前のことでした。神田伯山のラジオを聴いていたフォロワーさんが、劇場に行ったことや踊り子さんのことをツイートしており、興味を持ったのがきっかけです。
以来、ストリップ=行くと何となく元気がもらえる場所という認識を持つようになりました。それはひとえに踊り子さんたちによるステージの持つ力によるものだと思います。しかしそれからは、年に一度ほど劇場に行くことはあれど、ハマるほどではありませんでした。当時は浅草ロック座に行っていたのですが、まだ「この人だ!」と感じる踊り子さんに出会っていなかったのです(推しの踊り子さんについて語ると長くなるので、別の機会に譲ります)。
ある日の仕事帰り、ボロボロになって川崎ロック座に足を運びました。しなびきった心に何か「生」のエネルギーが欲しい。寄り道でもしないと息ができないという思いでした。劇場には仕事帰りのサラリーマンのおじさんがいて、思い思いの自らの「好き」や「思想」を込めた演目を踊る踊り子さんたちがいました(浅草以外の劇場では踊り子さんは自分でプロデュースした演目を踊ります)。タンバリンを叩き、リボンを投げ、ロビーで談笑するおじさんたち。家と会社の往復の合間に、「劇場」で息をついている人がいる。生き延びている人がいる。サードプレイスとしての劇場の存在に、救われる思いになりました。
実際、何度ストリップに、ストリップ劇場に、息をさせてもらったか。ファン歴も浅く、行く頻度も多くはない自分でも、たくさんの思い出があります。仕事帰りボロボロで客席をうろついていたら「ぼく次終わったら帰るんでいいですよ」とかぶり席を譲っていただいた常連らしきサラリーマンのおじさん。そんなボロボロOLに爆レスしてくれた踊り子さん。時間が巻きすぎちゃって急遽生じた謎の漫談タイムとじゃんけん大会。初めて好きな踊り子さんのステージを見た時の衝撃。浅草ロック座の女子トイレにある感想ノートの熱いコメント。
劇場にいくたび感じるのは、いかにいま実世界で流布している「エロ」を表す表現が、私たちの「エロ」に対するイメージが貧弱かということです。踊り子さんひとりひとりの、思い思いの表現を見るたびに、エロさも美しさもなにもかも、十人十色なのだということを思い知らされます。若々しくはつらつな健康的なセクシーさを見せる人もいれば、艶やかな大人の色気を放つ人もいて、日常のふとした瞬間に宿るエモさやエロさを見せる人もいます。アイドルやディーヴァのMVで見られるセクシーさ、あるいはAVやエロ漫画で見られるエロさ。世間に溢れる「セクシー」「エロ」、その定型をぶち破る表現が、劇場にはあります。踊り子さんの創造力が17分の舞台に繰り広げられます。「エロ」はこんなに豊かな、可能性に満ち溢れたものなのかと目からうろこが落ちるような衝撃を、ストリップは秘めています。
ただ女体があるからエロいのではありません。表情や指先、足先、視線、衣装、音楽、照明…さまざまなものを総動員して見せようとする意思にエロさは宿るのだと思うのです。おもしろいも、楽しいも、美しいも、ストリップには何でもある。劇場で繰り広げられている多様な表現に触れるたびに、どうしてこうも性にまつわる考えは、性を表す言語は、現実の豊かさを前にして貧相なのか、おかたく凝り固まっているのかと思わずにはいられません。
踊り子さんの舞台からたくさんの美しさやエロさを受け取り、そこから力を受け取ってきました。性を肯定する姿は、生を肯定する姿でもありました。自分にとってかけがえのない表現を「わいせつ」の一言で切り捨てられるのは、誠に遺憾であり、残念だとしか言いようがありません。