アルモンデ食堂
『 アルモンデ食堂 』
それは大体"木曜か金曜日"辺り。
週末近くになると営業を始めることが多くなる。
土日あたりで買い溜めた食材たちが、
冷蔵庫のお腹の中をパンパンに満たすと、冷蔵庫はどこか満足げ。
パントリーだって負けてはいない。
食材たちは、日々人間の胃袋を満たし
満足させると、1つ、2つ……と、
その姿を消してゆく。
そして金曜日を迎える頃、
数日前にはあんなに満たされ、生き生きとしていた台所が、随分と寂しくなっている。
それでも、まだどうにかそこにある、
"半端な"コだったり、
"賞味期限が近づいてきた"コ。
隅っこで"存在感を失っていた"コ。
一度に消費するのが勿体なく思えて、わざと"残しておいた"コもあれば、
『本日のお買い得』という謳い文句にまんまと乗せられ手に取ったものの
未だ"使い道の決まっていない"コ。
突然"ヨソからやって来た"コ。
逆に、首を長くして待ち構えていて、
やっとの思いで素材となれた。
……という"待ち侘びた"コまで。
アルモンデ食堂の料理人は、
早ければ木曜の昼食から、遅くても金曜の朝食には、それらの中からまるで
"宝探し"のように素材たちを見繕い、
調理の準備に取り掛かる。
使えるものの条件は、
今そこに"あるもの"のみ……。だなんて気難しいことは本当は言いたくはない。
新たな仲間の力を借りることが必要な時だってある。
けれどもそれは"最終手段"で最小限に。
実を言うとアルモンデの営業には、
そうせざるを得ない事情もあった。
それは、其処が最寄りの町までは
車で片道1時間と30分はかかる森の隅っこに位置している、という地理的な事情が深く関係していたから。
基本的には、
週に一度町まで"買い出し"に出て持ち帰った食材たち。
それと、
不定期ではあるけれどご近所さんからの嬉しい"お裾分け"。
或いは、
庭先で摘んだようなものたち。
それらの素材が一週間の間、腹ペコな人間たちの胃袋を満たす"全て"。
あとは"知識"と"知恵"と"技"とで紡ぎ出す。
往復3時間を掛けて最終手段を講じるよりも、"新たな仲間の力を借りずとも済む為の知恵"を絞る方が、結果的には"達成感"に浸れたり、その経験が次の何かに繋がったりすることだってある。
寧ろ、その方が料理は愉しいものだ。
土曜日か日曜に買い出しに出たきり、
追加で買い出しに行くことも無く、
"あるもの"で日々の調理をこなすのだから、正確に言えば、毎日が"アルモンデ食堂"だと言えばそうなのだろうが、料理人が敢えて毎日をアルモンデ食堂とは呼ばないのには理由があった。
買い出しに出た日の夕食から、水曜日あたりまでなら"献立"は事前に計画済み。
だからそこまでの食材は"想定内"であって、全てがきちんと揃っているのだから料理人的にはまだそれを
"アルモンデ食堂"とは呼ばないのだと。
ときには、既に献立を計画済みの週の初めあたりにでも、嬉しい"お裾分け"が不意に舞い込むことだってある。
それが消費するのに急を要する素材だったり、料理そのものだったりすると、当然、そのお裾分け料理そのものや、頂いた素材を急遽"ありもの"と掛け合わせて、予定外に拵えた料理がその日のうちに食卓に並ぶこともある。
けれども料理人はその日の食卓を
"アルモンデ食堂"とは決して呼ばず、
お裾分け由来のそのひと品だけを
"○○さんからのお裾分け"だとか
"○○さんからのお裾分けで作った料理"などと言って敢えて呼び分けた。
つまり料理人は、
『無計画だった食材から生み出した料理
"のみ"が並ぶ食卓=アルモンデ食堂』
と呼ぶと決めているようで、"ありもの"だけで自分がどこまで出来るのかという料理人の挑戦でもあるからこそ、その条件が揃った日だけをそう呼ぶことだけは、決して譲れない拘りのようだった。
有り難いけれど"いつ"そして"何が"届くかも分からない、或いは届かないかもしれない"お裾分け"や、
こちらの予定なんてお構い無しに
"無鉄砲に蔓延る"ことだってある、
庭の"気まぐれなサラダバー"の
新鮮野菜や果物を無駄にしない為に、
無計画なアルモンデ食堂の営業日を設けることは必要なこと。
『今あるものを無駄にせずに使い切ること。それが大前提』
そう考えた料理人が思いついた週末の拘りの時間であり、愉しみ方だった。
その為にも料理人は、週末の数日間をあえてそんな風に名付けて自身の
"創作意欲"を掻き立てていた。
ところが"食堂"とは言うものの、
実際のところ、その料理を口にするのはそこに住む一人か二人の住人だけ。
本当にお客が来る訳では無い。
但し、間違っても
『残りものの寄せ集め料理の日』
だなんて呼んで欲しく無かったこの家の料理人が、そう名付けた。
基本のレシピに忠実であろうとなかろうと、美味しくなりさえすればそんなことは関係ない。
上手くすれば、基本のレシピの味を超える"ひと皿"にだってなり得る。
偶然にも、そんな満足のひと皿が完成したとき、料理人は小さい頃に読んだ
『石のスープ』というヨーロッパの物語を思い出す。
"無一文で腹ペコ"の旅人が、鍋と火を借りることになった一人のご婦人に
「これは、煮ると美味しいスープが出来る不思議な石なんだ」
と、その辺で拾った普通の小石を見せながら、彼女に嘘の説明をした。
最初は"拾った小石"と"水"だけを鍋でぐつぐつ……と煮ていたが、
その"石のスープの味"に興味を持ったご婦人を、旅人は言葉巧みに操って、彼女の家にある"ありもの"を次々と差し出させ、ちょこちょこと石のスープに足していった。
そして最後には見事に、最高に美味しい石のスープを完成させ、二人は幸せな食事の時間を共に過ごし、ご婦人を驚かせ、喜ばせた。……というお話。
当然と言えば当然の結末なのかも知れない。
けれど、美味しく仕上げる為には
何でもただ"闇雲"に放り込めばいい、
という訳でも無い。
そこにはやはり知識とセンスも必要。
"ご婦人を騙した"
という部分にだけ意識を向ければ、決して良い話とは言い難いけれど、知恵を絞って"ありもの"から最高のひと皿を完成させたというエピソードに、人は魅了され、その味の想像をしてみたりもする。
そこに
"あるもので"
"アリモノで"
"アルモンデ"
たった"それだけ"で作られた。
というところに、却って"グッ"と惹きつけられてしまうものなのかもしれない。
ご婦人を驚かせたほど"石のスープ"が美味しかったのは、きっとその旅人がついた"嘘"のおかげでもあるのだと思う。
その嘘と工程とがワクワク感を生んだことで、そこに"形ある素材"としては存在しなかった何かが、まるで魔法のように
"もう一つの隠し味"となったはず。
……つい、言ってしまいがちだけど。
決して"残りものの○○"だなんて
呼ばないであげて。
知識を活かし、知恵を絞って、
"ありもの素材を輝かせる"。
それが
『 アリモノで食堂 』
ならぬ
『 アルモンデ食堂 』
食卓の上に設えられた"蝋燭"に、
昼夜の別なく火が灯される時、
それがこの家の料理人の言うところの
"アルモンデ食堂"の全ての支度が整った合図。
『石のスープ』の旅人もそうしたと記憶している料理人が、あの物語の中の"食事に魔法を掛ける"という部分をリスペクトする気持ちからそうする事にしたようだ。
さてさて……
今週もそろそろ、あの蝋燭に火が灯されるころです。
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