歌詞考察「きらり」藤井 風

  某H○NDAのCMで流れてきてあまりのキャッチーさに一聞ぼれしまして、フルの歌詞を見ていたら考察を書きたい気持ちがジワジワと。「歌詞」の検索で引っかかった方には申し訳ないですが、細切れで考えていくのでフルで見たい場合はしっかりしたサイトをご覧になってください。以下考察です。


荒れ狂う季節の中を二人は一人きり さらり

 歌い出しの一文。どの作品でもほとんどの場合、その内容には時代背景時事が関わってきます。例えば2021年において真っ赤なポルシェに乗って海沿いで言い合いになったり、窃盗したバイクで走りだす歌詞を打ち出しても、なかなか令和の若年層は共感しないでしょう。
 「二人」だったはずなのに今や「一人きり」になってしまう。この二人の距離を遠ざけているものは、お察しの通りコロナが広がっている今(荒れ狂う季節)だと思われます。続く「さらり」は飛ぶように過ぎていく時間のこととここでは推測します。


明け行く夕日の中を今夜も昼下がり さらり

 改めて面白いのが、この曲の歌詞は一見するとちぐはぐな言葉の組み合わせからできている点です。前述の「二人は一人きり」もそうですが、「明けて行く」のは夜ではなくここでは「夕日」です。さらに後ろに「今夜」「昼下がり」と時間帯を表す単語がバラバラと続きます。タイムリープ?未来人?などと深読みしたいところですが、直入に時間があまりにも早く流れていく様を表していると言い切ってみます。そしてもう一度「さらり」と付け加えることで時はあっけなく過ぎていく、と再度強調しています。


どれほど朽ち果てようと 最後にゃ笑いたい

何のために戦おうとも 動機は愛がいい Ah

 何が「朽ち果てる」のか主語が示されていませんが「人」か「人間の暮らし」のどちらかでしょう。前者ならば「荒れ狂う季節」に疲れ果てた人でしょうし、後者ならば疫病で「人間の黄昏」とでもいうような状況に陥った人々の生活だと思われます。「最後」がディストピア的な終りか、コロナの収束かは定かではありませんが、今がどんな状況でこれからどのようになったとしても最後には幸せになりたい、という願いが「にゃ」ではぐらかされつつ歌われています(読んだまんまですね)
 続くフレーズでも(何のためにとはありますが)「何と」戦っているのか明言されていません(ここでは今までの流れをくんでコロナとしておきます)、社会的な目標はさておいて、自分(この歌詞の中の人)がいざ実際にそれと戦うとなったら「利他的(=愛)」な動機が良いなぁと思っているようです。


 新しい日々は 探さずとも常に ここに

 ちょっとした外食も旅行もなかなかできず、親しい友人と直接の再会もままならない日々で多くの人はアフターコロナを夢見つつ、リモートやマスク生活に慣れようと必死になっています。家での時間も増え、趣味が変わってしまった人も少なくないはずです。そんな中、この一文は無理に背伸びをして作り出そうとしている「新しい日々」ではなく、日常の今(「ここ」)を見るようにと促します。


 色々見てきたけれど この瞳は永遠に きらり

 先ほど「疲れ果てた人」か「人間の黄昏」か、という二種類の予測を立てました。意味がもし前者ならば「どれだけ疲れても終わりよければ全てよし(=最後にはうまくいくだろう)」という希望的なフレーズ、後者ならば「たとえ人類滅亡でも私たちなりの幸せを(=どうにでもなあれ)」と少しほろ苦いテイストになります。しかしこの一文の最後に歌われるひとこと、曲名にもなっている「きらり」がつくことで、まだ自分の心は折れていないよという希望にあふれたテイストに決定されます。


あれほど生きてきたけど 全ては夢みたい

 マスクなしで出歩き、出会った友達の表情を見ながら笑いあう、そんな当たり前の日常は2020年に吹き飛んでしまいました。コロナ禍の現在の心境を簡潔に、しかし正確に表していると言えるでしょう。


 あれもこれも魅力的でも 私は君がいい

 魅力的に思うのが「君」と出会う以前の気楽な生活か、それとも素敵な他の誰かかは分かりませんが、それらを考慮しても「君」と過ごす日々を、と続きます。過去のなにかと未来を天秤にかけたなら「私」は未来を選ぶというような意味合いのフレーズは後述するサビでも歌われます。


どこにいたの 探してたよ 連れてって 連れてって

何もかも 捨ててくよ どこまでも どこまでも

  見つからなかった人(おそらく「君」のこと)とついに出会い、一緒に行こうと誘いをかけるサビです。CM曲としても非常に耳を惹く部分ですがフルで聴くと、気だるげな朝の囁き声を思わせるしっとり落ち着いた歌い出しから始まり、この歌詞にたどり着いた途端吹き抜けるような高音に変わります。前後の対比によってさらに爽快感のあるサビになっています。男性ボーカルが柔らかい言葉遣いで歌う、といえばポルノグラフィティを連想する方も多いでしょうがやはり「(普段)低音域の方が歌う高音」もしくは「高音域の方が歌う低音」からでしか感じられない何かがありますね。
 「連れてって」という若干受け身の一文は(良い意味で)白馬の王子様のような救いが現れてほしい希望を表しているように思われます。「何もかも捨ててくよ」は一見すると自暴自棄でネガティブなようですが、捨てていくということは新たに何かを得る準備、もしくはそれほどの対価を払ってでも前に進むという覚悟の現れと考えていいのではないでしょうか。


荒れ狂う 季節の中も 群衆の中も

君とならば さらり さらり

  2020年を過ぎてから「人混み」「雑踏」の意味は劇的に変わりましたね。これが2019年くらいだったとしたら「群衆」は知らない人の集まりという程度でそこまで重要な意味をもっていなかったと思います。最初のほうで使われた「さらり」がここでも再び登場しますが、今回は無駄に過ぎていく日々の形容詞ではなく困難すら「君」といれば忘れてしまう、すぐになくなっていくとポジティブに変換されているようです。


 新しい日々も 拙い過去も 全てがきらり

 未来も過去も全て受け止める意志が「きらり」で示されています。振り返ってみるとここまでの時点で実は登場する回数としては「さらり」のほうが「きらり」よりも多いんですね。なぜ曲名が「きらり」なのかと考えてみたところ、一番の理由としてはこの単語がスパイスの役割を果たしているからではないでしょうか。「きらり」はあくまでもスイカにかける塩のような存在であり、使い過ぎると聞き手の「きらり」のフレーズに対する印象を薄くしてしまいます。むしろ「さらり」「ほろり」「ゆらり」といった柔らかい表現の中にほんの少しだけ鋭い形容詞が含まれることで歌詞にメリハリを与えています。ラップで例えるなら「きらり」はパンチライン(パンチワード?)なのです。


今回参考にした動画:




 とりあえず見切り発車で1番の歌詞だけを自分なりに解釈し、解説してみました。どんな作品においても批評の方がやりやすいものですが、この曲に関しては私自身がドはまりしてしまったこともあり僭越ながら「考察」としました。改めて思うのが日本語って面白いですよね。「明け行く夕日の中を今夜も昼下がり」の部分でもちらっと話しましたが、これ英語に訳すならどうなるんでしょうか。DeepL翻訳先生に投げ込んだところ"The sun is setting, and it's late afternoon again tonight."と訳してくださいましたが普通に読むと頓珍漢です。ちぐはぐな言葉の取り合わせでも雰囲気で言いたいことが伝わってくるのは楽しいですね。「捨ててくよ」の歌詞に最初は引っかかった私でしたが「いやこれはポルノの『胸に挿した一輪の薔薇が赤い蜥蜴に変わる夜』=そんな夜はこない(反語)のアレでは?!」と思い…。これが今回Noteを書くに至った動機です(ジョバイロの歌詞の云々は私の勝手な解釈です)
 藤井風さんが易々と歌われているので気が付きにくいですが、曲の出だしの低音&サビの高音の組み合わせがとんでもなく、やっぱ歌うって凄いことだなぁと。お恥ずかしながらこの曲以外の藤井さんの曲を聴いたことが無いので、さっそく聞いてきます。最後まで閲覧していただきありがとうございました。


(追記)この歌詞って別にコロナのこといってるわけじゃないんじゃない?と指摘がありそうなので付け足しますが、全ての曲にはある程度余白があり、聞いた人が入り込める余地を作っています。この考察はあくまで「きらりという歌は今の時代背景を考慮して作られているのではないか?」という私の個人的な推測に基づいて書いています。悪しからず。

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