自信をつける方法
まずは数年前までの私の状態を参考に、自分に自信がない人の特徴を思いつくままに書き出してみる。
・常に不安で、自分が周囲からどう見られているのかが気になって仕方がない。
・他人と自分との違いや差が気になる。
・公私において非効率的なふるまいをよくしてしまう。
・仕事や人付き合いが上手にできない。
・誰かと接していると身構えてしまったり逆に逃げ腰になったりして、リラックスした状態で人と関わるのが難しい。
・気分の上がり下がりが激しく、イライラしたりカッとなることも多いが、制御が難しい。
・自分には価値がないと思っているため、誰かから好意を向けられてもその理由がわからないので受け入れられないし、信じたい気持ちはあるのに疑念ばかりが湧いてくる。
・尽くすことは得意だが、尽くされる側になるとひどく困惑し落ち着かなくなる。
・常に理想とする人格や求められている人格を演じており、それによる疲れとストレスを溜め込み続けている。
まだまだあるだろうが、ここに挙げたぶんだけでもかなりの生きづらさだ。これを解消できれば確実に人生は一変するはずだが、そのためには何をすべきなのだろう。
自信をつけるために、すでに様々な方法を実践しているという方は多い。しかし、揺るぎない自信を身につけることはとても困難なように思える。
自信をつけるために努力する。これはひとまずよいことと言える。
勉強をすることでできることやわかることが増えたり、トレーニングを積むことで仕事の能率やスポーツの成績が上がったり、プロポーションがよくなったり。
だが、努力した結果得られる成果にも限度がある。そしてどんな世界にも上には上がいる。
「自分は何かの点で他人よりも優れている」ということを自信の根拠にしても、それでまったく不安がなくなるわけではない。
とはいえもちろん、自分が積み上げてきた努力そのもの、そしてそこから得た成果そのものには、ちゃんと意味がある。「やるだけのことはやったんだ」という確信は、態度やパフォーマンスにも表れる。絶対的な自信とまではいかなくともそれなりの自信は身につくので、何もこれまでしてきた努力をやめてしまうことはない。
のだが、「それでは足りないのだ」という飢餓感や不安にいつまでも悩まされているという人は多い。
そのうえ、たいへん嫌な話ではあるが、努力したところでどうにもならないことなんてこの世にはいくらでもある。
ではどうすべきか。
自信という言葉は、自分を信じると書く。
では、誰かを信じるために必要なものは何かと考えてみる。
それは、その「誰か」についての知識だ。
どこの誰で何を考えているのか、共感や同調や相互理解は可能なのか、次の瞬間にどう動くのか。そういったことが一切わからない相手など、到底信じることはできない。
誰かを信じるにはまず、その人のことをよく知らなくてはいけない。
その誰かが自分であっても、同じことではないだろうか。
自分には何ができて、何ができないのか。
何を持っていて、何を持っていないのか。
何を良しとし、何を悪しとするのか。
何を愛し、何を憎むのか。
何を求め、何を捨てたがっているのか。
ここに挙げたものはほんの一例だが、自分に関するこういった本性とでもいうべきものを、自分がどれだけわかっているか、そして認められているか。それによって自信のほどは大きく違ってくる。
自信を喪失するのはどんなときか、と考えてみる。
自信を喪失するというのは要するに、自分を信じられなくなることだ。
では、誰かを信じられなくなるのはいったいどういうときだろう。
それは、その誰かに裏切られたときではないだろうか。
自分で自分に裏切られるという経験を私たちはしばしば得てしまう。
絶対にしないと誓っていたことをしてしまったり、簡単にできるはずだと思っていたことができなかったり、心が通じ合っていると思い込んでいた相手に拒絶されてしまったり。そういうときに私たちは自信を失う。
しかし自信を失ったときほど、実は本当の自分を知るチャンスなのだ。
自分への期待が裏切られたということは、自分を過信していたということなのだから、次からはもっと現実的な期待を持つようにすればよい。もっと用心深くなればよい。
そうやって、自分とは実際のところどの程度のどういった人物なのかというデータを細かく更新していけば、予想外の失態を演じてしまって自信を失うようなことはなくなる。
と、ここまで読んでくださった方の多くは、おそらく多少の落胆を感じておられるのではないかと思う。
知りたいのはそんなみみっちいコツなんかじゃなくて、アメリカのトランプ元大統領やスティーヴ・ジョブズのように、その他各界の華々しい著名人のように、自信満々で余裕綽々な態度で生きていくにはどうしたらいいのかが知りたいのだ、と。
だがそういった、強い影響力を持つ人々にしても、結局のところ理屈は同じだと私は思っている。
おそらく彼らは自分自身を熟知している。だから自分を一番良く見せることができるのだ。あとは、規模の違いでしかない。
自分自身を知らず、したがって自分を信じられもせず、自信が持てないでいる。
そういう状態で生きることは、例えるならば手札を伏せて一度も見ないままでポーカーをしているようなものだ。
自分に配られた手札のすべてを見ることがとても怖い。勇気を出してカードをめくって確認してみたところで、どうやっても勝てないブタ(役無し)であるのがはっきりするだけかもしれない。
「それなら、いっそのこと手札を見なければどうだ。そうすれば少なくとも、もしかしたらすでに最強の役が手元にできているのかもしれないという期待をいつまでも持ち続けることだけはできるんじゃないのか?」
ついそんなことを考える。
事実を確かめないことで希望を守り通そうとする。
私もかつてそうだったから気持ちはわかるが、それではなんの解決にもならない。そしてそのことは自分自身でもおそらくわかっている。
私のような者からこうしてクドクドと言われるまでもなく、自分がなんの解決にも繋がらない態度を取り続けていることは自分自身でよくわかっている。わかっているけど怖い。恐ろしくて仕方がない。
自分に自信がない人にはある共通点がある。
それは、自分自身の中に正視できない部分を持ち続けていることだ。
できることなら切り取って捨ててしまいたいと思う部分。これさえなければ自分も人並になれるのに、幸せになれるのにと考えてしまう部分。
自分に配られたカードをつぶさに確認できずにいるのは、そうした部分を万が一にも目の当たりにしないためだ。
そういう部分は誰にでもある、それが人間であり人間らしさでもあるのじゃないか、と思うかもしれない。
しかしそれは違う。
自分に自信がある人は、自分が持っているあらゆる部分、あらゆる面と向き合うことを恐れない。
人はたくさんの面を持っている。様々な部分でできている。
自分に自信がない人は、自分の中の望ましくない部分だけを忌々しい異物のように嫌悪して、なるべく見ないようにして忘れようとしている。
だが自信がある人はそういうことをしない。厄介な部分が自分にあることは知っているが、その部分に対してそもそも選り好みをしない。自分を形作っている要素のひとつを選り好みしてみたところで、捨てたりできるわけではないことをわかっているからだ。
厄介な部分というのは多くの場合、自分の弱点でもある。ならなおさら、それについてよく知っておくべきだ。
誰にでも、できないことや苦手なことはある。しかしそういった自分の弱点をちゃんとわかっていれば手の打ちようもある。カバーする手段も見つかる。その反対に、どうしてもできないことはできないこととして、きっぱりと諦めることもできる。
「知らないんだからどうしようもない」で済まさず、ちゃんと知ったうえでふさわしい対応をしていくのが合理的な態度というものだ。
他者と向き合うときに感じる怯えや不安。これは目の前の相手に対して抱いているものでは、実はない。
見ないようにしている自分の一部が何かするかもしれない、ふとした拍子に相手の目に触れてしまうかもしれないという、自分の内側に対しての怯えであり不安なのだ。
得体のしれない不安要素が自分の中にあるなら、それをつぶさに見極めればいいだけのことだ。他人よりも先に自分で見つけて確かめて、自分の手足と同じく、それもまた間違いなく自分の一部なのだと認めてやればいい。
なにも自分の殻をぶち壊して内面をすべてさらけ出せというのではない。
隠し事はしてもいいのだ。むしろ隠しておきたい部分を周囲の目からうまく隠し通すためにも、まずは自分で自分の正体を明らかにしておく必要があるんじゃないのかということだ。
人は完璧ではないし、完璧になれもしない。だが過不足のない十全な自分にはなれる。
もし自分には何かが足りないと感じているなら、それを見つけることが自信をつける方法だ。
自分の中の陽のあたる明るいところを全部探しても見つからなかったなら、その探しものは案外、自分の中の一番暗いところにあるのかもしれない。