強さの秘訣・1 タフネス編

 本稿では、精神的にタフな人とそうでない人の違いを、できるだけわかりやすく説明していきます。それではさっそく始めます。



 思いのほか見づらくなってしまいましたが……こちらの画像には全面に小さな点がびっしりと並んでいます。仮にこれを、人間社会の縮図であるとしましょう。



 見やすいように拡大しました。ここに配置されている全ての点が、それぞれ別個の、ある特定の個人を表しているのだと想定してください。



 すべて同じに見えるおびただしい数の点の中から、自分を示す点を間違うことなく特定できる人。これがいわゆる『強い人』です。



 対して、『弱い人』はどの点が自分にあたるのかを明確に判別することができません。このあたりかな? というふうに大まかな領域が指定できるにとどまります。



 点と領域。
 これが、強い人と弱い人の違いです。


解説

 ここで点と領域の差異でもって表されているものは自分の、意識のうえでの『あり方』の違いです。アイデンティティ(自分とは何か)の確度の差と言ってもいいでしょう。

 意識のうえで、『自分である』部分と『自分ではない』部分を仕分けていくには、『本当の自分』についての知識がどうしても必要になってきます。
 ですから、自分自身のことを深く正確に知れば知るほど、その人の意識のうえでのあり方は点に近づいていくことになります。

 反対に、自分自身についてよくわかっていない人には『自』と『他』の境界をはっきりさせることができません。そのため一個人本来の大きさである『点』を大きく越えた、『領域』と呼ぶべき広さにまで『自分』がぼんやりと拡大してしまっているわけです。
 これは、自分が今いる正確な位置が特定できないため自分がいるかもしれない(=自分がいてもおかしくない)と思われる範囲をも含めて大きめに取った領域全体を常に『自分』と想定している状態である、と言い換えてもいいでしょう。その領域の中のほとんどすべての位置に仮想の自分が遍在しているようなものです。


タフネスの真実

 一口にメンタルの強さと言ってもその側面は様々あるのですが、一番に思い浮かぶのは精神的なタフさ、傷つきづらさでしょう。
 「ガラスのハート」や「鉄のハート」などという言い回しがあるように、タフな人というのは精神そのものが丈夫なので少々のことではびくともしないのだ、というイメージをほとんどの人がいだいています。ですが、それは誤解です。

 精神そのものの堅牢さに、個人差はあまりありません。顕著に違うのは、当たり判定の大きさなのです。
 冒頭の図示はそれをわかりやすく説明するためのものでした。


 いま一度先ほどの図を見てみます。右側に示した『領域』の大きさは人により様々ですが、これが大きくなればなるほど、その人は多くの悪意や攻撃を拾ってしまうことになります。
 一方、意識のあり方が『点』であるほうの人はたいていの場合無傷です。ごく近しい相手からのものならばともかく、見ず知らずの他人からの悪意や攻撃などは、ほぼ確実に当たりません。

 精神的にタフな人は他人の悪意や攻撃に耐える防御力が高いのではありません。実際には、そもそもそれらに晒されてすらいないのです。ですから厳密に言うとタフなわけではなく、そう見えているだけなのです。

 この誤解があまりにも根強いため、間違ったタフネスを身につけようとして失敗する人たちは後を絶ちません。
 立ち直りの早さもダメージを隠す演技力もタフネスの一種なのだという意見もあるかもしれませんが、それはただ無理をしているだけです。
 どんな悪意や攻撃に晒されようと何も感じないという過度の鈍感さもタフネスとは違います。一般的に健全とされている精神状態ではなくなっているだけで、傷そのものは防げていないことがほとんどです。


共感性

 当たり判定が小さいことは、傷つかずに生きていくためにはとても有利です。しかしそうすると必然的に共感性は低くなります。他者と重ね合わせることができる領域もまた、小さくなっているからです。

 しかしながら。
 私見を言わせていただきますと、共感というのはある種の『勘違い』です。
 他者の感情や経験を我がことのように感じるのが共感ですが、本来は感情も経験も個人的なものなので、まるっきり同じものを共有するなんてことはできません。そういう意味では『勘違い』なのです。

 とはいえたいていの場合、共感性は良い方向へと作用します。共感性の高い人は他人の機微に聡いので、優しい人であるとされることが多く、好印象を持たれやすいです。また、共感性は人と人とを近づけるよう働きかけるものなので、他者と親しくなる際にはとても有効です。

 ただもちろん、共感性が悪い作用を及ぼすこともあります。共感性が高すぎるために、『他者に寄り添っている』というよりは『他者に引きずられてしまっているだけ』という状態に陥っている人は、よく見うけられます。
 傷ついた他者に共感し義憤を露わにしている人たちの中には、ただ単に自分に不足している活力源としての『怒り』を手に入れたいがために共感性を『流用』しているだけの便乗者も多く紛れています。(怒りの効用に関しては、拙稿『アンガーマネジメントについて』内にて詳述しております  https://note.com/grin/n/nd52fdade5e0b )
 

 ……ところで。
 『共感』は『勘違い』だと、先ほど私は専断しましたが。

 しかしながら『勘違い』は、『想像力による産物』でもあります。
 自分のことのように『感じる』のではなく、もし自分だったらという『想像』をすることでも、他者の気持ちを察することはできます。むしろそのほうが冷静さを保てるぶん、的確な貢献ができることでしょう。
 タフで優しい人格者像というのは、おそらくそうした、ある意味少し冷たい、隠された下地があってこそ、成り立っているものなのではないでしょうか。


まとめ

「精神は鍛えることができない」と言われれば、どことなく嫌でしょうし、絶望に似た気分にもなります。なので私はそうした身も蓋もない言い方はなるべくしないよう心がけています。
 かといって「精神は鍛えることができる」というのがもしも真なのだとしたら、それはそれで残酷すぎます。おまえの心が弱いのは鍛え方が足りてないからなのだと言われても、納得できるものではありません。心を鍛えるための科学的に実証された方法があるというのなら話は別ですが、そうしたものはいまだないのですから。


 本稿に書かれていることをすぐには信じられなくとも結構です。それは当然のことですし。
 これはあくまでも私見であり、私と同じようなことを言っている人を見かけたことは私もありませんのでこれはおそらく、多分に常識外れな、チンケな一意見でしかないのでしょう。

 ですが、精神の強さ(タフさ)というものの正体が、実は本稿で示されているようなものであったのだとしたら? というのを、あくまで一つの可能性として考えてみても、別段それほど損はしないのではないかな……とは思っています。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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