知らない人の、よく知らない犬の話
職場の近くに、ガラス張りの事務所がある。
毎日では無いが、昼や夕方に、その前を通ると、白く退色したゴールデンレトリーバーが、玄関前に横たわり、道行く人間の観察をしていた。
ゆったりと穏やかそうな、その老犬は、皆のアイドルだったと思う。
ある日
小さな子が、犬に近づくと、事務所の中から人が出てきて
「もう、おじいさんだから、寝てるのよ」と、説明をしていた。
別の日
近所の方が、犬と事務所の中の人に話しかけて通り過ぎて行った。
また別の日
事務所の中の人の犬なのか、小型犬が一緒にいるが、老犬は、あまり気にもしないようすで、いつものように、外を眺めている。
名前もしらない老犬
挨拶もしたことのない飼い主。果たして、誰が飼い主なのか、事務所の中を覗いたことがないので、わからない。
いつも、横たわり、外を眺めている老犬
私の同僚の何人かは、「あの犬知ってる?いつも寝てて可愛い。癒されるよね」と、話していた。
そんな、ただ通り過ぎるだけの私たちは、知らずに癒されてきた。
犬は、ただ、そこから通りを見ているだけなのに。
時々、いない日もある
私も、毎日通るわけでもないので、今日は、いないのね。程度で、あまり気にしていなかったが…
そんな犬が知らない間に旅立っていたと知った。
同僚が、あの事務所前に、犬の写真とともに、亡くなったお知らせが貼ってあった。と、教えてくれた。
ショックだった。
早速、貼り紙を見に行ったが、事務所の中に人がいるため、近くで見ることもできず、少し離れたところから眺めた。
少し若いころの犬の写真が3枚張ってあった。
細かい字は読めなかったが、はじめて、その犬の名前と年齢を知った。
そして、若々しかったころの姿も。。。
知れてよかった。
亡くなったのは先月だったようだ。
「あの子、いないけどどうしたの?」そんな、問い合わせが多かったのか
通りすがりの、顔見知りが多かったから知らせたのか
あの犬に会いに来る子がいたからなのか
飼主あるいは、事務所の中の人たちが、知らせたいと思ったのか
知らせてくれて、ありがとうございました。
知らせてくれないと、私みたいに、通りを歩いていた多くの人が、
「そう言えば、あの子どうしたかな」と、モヤモヤする羽目になっただろう。
きっと、私と同じように、みなが、よく知らない老犬の死を悼んでいるだろう。
グリーフとは愛着対象を喪失した時に起こる悲しみだ。
あの老犬に対するグリーフ
見慣れた風景を喪失したグリーフ
飼い主の知らないところで、多くの人に愛されていた犬
犬は気づいていたのだろうか
きっと、気づいていただろう
だって、見てたら目が合うから
皆も、笑顔になったり、愛に溢れたまなざしを向けていただろう
明るい声、優しい声で話しかけていただろう
会えないと思ったら寂しかったけど、今は、写真が貼ってある。写真と会える。
通りすがりの知らない人たちが、あの老犬とまた、写真という新しい絆で、結び直されたと思うと、なんだかホッとした。