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黄緑色の山

 小学校でも中学でも高校でも、教室からふと窓の外へ目を向けますと、そこには恵那山がそびえておりました。中津川から見る恵那山は前山の後ろから頭だけ覗かせているのですが、それでも大きいのでひときわ目立ちます。恵那山の周りには、恵那山よりも少し低い、名も知らぬ山々が並んでおりました。そしてその中に昔から何となく気になる山があったのでございます。

 それは恵那山の左の方に見える山で、他の山と似たような高さなのですが、何が気になるのかと申しますと、他の黒々とした深緑色の山々と違って、その山だけ明るい黄緑色なのです。他の山々が深い木々に覆われているのに、その山だけはまるで短い芝生に覆われているように見えるのです。まるで山全体がゴルフ場かと思えるほどです。

 私は昔から妙にこの山に惹きつけられるものがありました。授業に退屈するとよくその黄緑色の山を眺めては、鳥あるいはスーパーマンにでも変身して一直線にその山めがけて飛んで行く自分を妄想したものです。いつの日かあの山の尾根に立ったなら、きっと向こう側に拡がる飯田の町を見渡せるかも知れないなどと考えたりすることもありました。ところが高校を卒業し、中津川を離れ名古屋で暮らすようになると、たまに恵那山を遠く望むことはあっても、あの黄緑色の山を思い出すことはなくなりました。

 初夏のある日、長野県阿智村のヘブンスそのはらというところへ水芭蕉を見に行くことになりました。名古屋から中央道を走り、恵那山トンネルを抜けた先の園原インターを降りてすぐのところに、ヘブンスそのはらの入口がありました。そこからロープウェイで登って、いわなの森というところを散策し、水芭蕉の群生を楽しみました。パンフレットによると、ここからさらにリフトに乗って展望台に上がり、そこから林道を走るバスに乗って行った先に、富士見台高原という360度の展望を楽しめるところがあるとのことなので行ってみることにしました。

 リフトで展望台に到着すると冠雪した南アルプスの山々が見渡せました。林道にバス停がありましたが、時刻表を見ると次の便はかなり後のようです。富士見台高原まで歩けない距離でもなさそうでしたので、歩いて行くことにしました。林道は尾根よりも少し低い位置を通っており、新緑の林を抜けていく気持ちのいい舗装道路が続いております。

 しばらく歩いておりますとパノラマルートなる標識を見つけました。林道から分岐する山道で、尾根づたいに富士見台高原まで歩いて行けるようです。硬い舗装道路で足が少々疲れていたことと、もしかしたら林道よりも近道かも知れないと思い、パノラマルートを歩いてみることにしました。

 山道に入ると林の中を急な登りが少しあります。やがて視界が開け尾根に出た途端、いきなり目の前に巨大な山塊が出現しました。そしてそれが恵那山だと気づくと驚愕しました。まさか自分がこんな所にいるとは思ってもいなかったのです。昔は毎日のように見上げていた山ですが、こんなに近くから見たのは生まれて初めてです。あまりの迫力ある山容にしばらく見とれておりました。

 この日はお天気にも恵まれ、初夏の風に吹かれながら歩くパノラマルートは、これまでに歩いたどんな道よりも素晴らしいものでした。尾根づたいに続く道はまさに天空の散歩道。明るい黄緑色の背の低い笹の海に覆われ、開放感抜群で景色最高です。そして、どこか昔ながらの峠道といった風情も感じられるのです。笹の向こうから旅路を急ぐ木枯し紋次郎が突然現れ、私とすれ違って行きます。振り返ればそこには巨大な恵那山の姿があるのでした。

 あまりにも気持ちのいいこの道を歩くうち、私は変なことを考え始めておりました。それは、ときおり物事をより大袈裟にドラマチックに考えがちな私の悪い癖なのですが、もしかすると今まで生きてきたのは今日この道を歩くためだったのではないだろうかとか、これまで歩んできた人生のすべてはこの道へと繋がっていて、何かに導かれてようやくここに辿り着いたのではないだろうかという、実にとりとめのない考えです。私は思わず辺りを見回しました。笹の葉が、さらさらと音をたてて風になびいていきます。

 小休止をしながら、私はそれがあながち大袈裟でも何でもないのかも知れないと感じるようになっていました。実は巨大な恵那山が目に飛び込んできた瞬間に、黄緑色に輝く笹の海を目にした瞬間に、私はうっすら気づき始めていたのです。今自分のいるこの場所が、かつて憧れと共に眺めていたあの黄緑色の山であったことに。

 さらに歩くと、眼下に広がる小さな町を目にしました。私は足をとめ、町を見降ろします。小学、中学、高校の校舎を探してみました。そのすべての校舎に子どもの頃の私がいて、窓越しにこちらを見上げているのが見えます。鳥にもスーパーマンにもなれない私でしたが、不思議な偶然に導かれるように何十年という歳月をかけて、ようやくこの場所に辿り着いたのでした。

 富士見台高原は、もう目の前です。

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