見出し画像

駆け抜ける

 突然、走れなくなった。

 足がつったとか、怪我をしていた訳ではない。
 あの日、スターターピストルの音が響いても、ピクリとも動かなかったのだ。
 気付いてしまった。
 ゴールラインの向こう側には、何もないことを。

 子供の頃から、走るのが好きだった。
 誰よりも速くグラウンドを駆け、テープを切る快感を知ってからは、毎日ひたすら走り続けた。
 栄冠を手にする度、羨望と嫉妬の眼差しを浴びる度、己は走る為に生まれたのだと実感した。
 そうであったはずなのに。
 歓声も、輝かしい未来も、誰もが羨む世界を約束されたも同然なのに。
 それら全てが無彩色な、触れればパラパラと崩れ去る灰で作られた城と化していた。
 あれは、俺が受け取るべきものではなかったのだ。俺を受け入れるべき世界ではなかったのだ。
 そう、気付いてしまった。

「待ってよ、待ってよ……」
 うつつの狭間で、またあの声が聞こえる。追われているのは俺か、それとも俺が追っているのか。
 何度も寝返りを打つ。耳を塞いでも、身をかがめても、微かにまとわりつくように、繰り返し繰り返し聞こえるのだ。
 知っていた。以前から聞こえていた。ただ、気に留めなかった。気に留めようとしなかった。
 何かがそうさせていたのかもしれない。
 おそらくあの日、堰き止めていた何かが決壊したのだ。
 この声に答えれば、あるいは再び走ることが叶うのだろうか。いや、俺は走りたいのかすら、もはや分からなくなっていた。

「まさか、思い出したのか?」
「そうかもしれない。間違えてしまったこと、あの子に言わなかったからなの?」
「医者はなんて言ってるんだ」
「精神的なもの、ストレスとかプレッシャーとか」
「ありきたりの事しか言わんのか」
「だって、あの子も何も言わないんだもの。それに……怖くて聞けない」
「仕方ないじゃないか、あの時は……」

 ダイニングから細く漏れる明かり。
 両親の影と、押し殺した声で綴られる会話。
『間違えてしまった……』
『仕方ない……』
 あれは、彼らの本心だ。責めることは出来ない。むしろ俺が謝らなければならないのだろう。
 謝る?何を?
 飲み干したコップを音を立てないようシンクに置いて、二階の自室へ戻った。

「待ってよ、待ってよ……」
 今度は耳を澄ます。
 誰の声だ、俺の声か?無意味な自問を繰り返し、やがて嵐のように渦巻くそれに締め付けられ、息が出来なくなる。苦しさをふり解こうと腕を伸ばしてぎょっとした。
 小さな青白い手が、首に絡みついている。
 瞬間、雷に打たれたような閃光が走り、叫び声がほとばしった。
、やめて!」

 そうだった。
 俺は双子だった。

 兄は俺よりずっと足が速かった。
 まだ足元もおぼつかない頃から、俺はいつも兄を追っていた。兄に追いつきたかった。
 俺たちはあまりにもそっくりで、足の速さくらいしか見分けがつかなかった。いつも二人一緒で、だから、事故が起こった時も同じ場所にはね飛ばされていた。
「――?大丈夫?」
 暖かい手の感触を、握り返そうとしたのを覚えている。
「……う、ん」
 そう、答えたのだと思う。
 答えの無かった片方は、意識を取り戻すことなく旅立った。
 
 あの日から、俺は兄になった。

 兄のためのリハビリ、兄のためのプログラム。
 幼い頃から将来を嘱望されていた、全ては兄のためのものだった。
 両親がいつ、間違いに気付いたのかは分からない。
 兄の名で呼ばれ、疑いもせず答える俺が哀れだったのだろうか。もはや戸籍上は死人である弟だと、伝えることが出来なかったのだろう。いずれにしても、俺は兄として生きるしかなかったのだ。

 だが、兄は。

 生きられなかった兄は、ただ名のみが残り、己が成していないものの全てにおいて賞賛される。
 もし、名が残ったことで彼岸に渡れず、この世にとどめ置かれているのなら、どれほど悔しく辛いことだろう。
 俺が、間違っていなければ。
 俺が、死んでさえいたら。

 気がつくと、部屋着のまま外に出ていた。
 いつものコースをゆっくりと走り始める。
 少しずつ、少しずつ、スピードを上げてゆく。
 高台まで、あの海の見える高台まで。

 そこは夕陽を眺めるには絶好の場所で、いつもはアマチュアカメラマンやカップルで溢れている。しかし生憎の雨の日、夜ともなれば人っ子一人いない。
 俺はゆっくりと、柵を乗り越えた。
 崩れやすい斜面を滑り降りると、でこぼこに削られた岩肌の下は、今や黒々とうねり砕ける海である。
 端にそっと腰をかけ、砕け散る波音に耳を傾ける。
 誰かが言った。人は海から来た、と。
 ならば還るのも海で良いのではないか。
 俺も、兄も。
 本当はあの日、一緒に還るべきだったのだ。

「待ってよ、待ってよ……」
 ごめんな、兄ちゃん、追いかけてたのは俺だったのに。いつの間にか、置いてってしまってたんだな。でも、もう大丈夫。俺もいくから。今度は一緒に走ろうな。
 俺は大きく息をつくと立ち上がる。
 なに、難しいことはない。スターターピストルの音が聞こえたら、踏み出せばいい。
 ひときわ、波の音が大きく響いた。

 新しいスパイクはしっくりと足に馴染む。
 準備は全て整っている。あとはスターターピストルが鳴ると同時に、駆け抜ける。

 パンッ!

 青空に、その鋭い音が響き渡った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?