底
どこまでも続くように見える、底の見えない、深い大穴があった。
その中に何があるのか誰も知らない。
誰一人として帰ってこなかったから。
なぜこんな穴ができたのかまるで分からない。
誰かが生まれる前からそこにあったから。
いつの間にか穴はあり、きっと、これからもありつづけるのだろう。
私は、目の前のその穴を見つめていた。
私は自分の人生に絶望していた。
もうどうなっても構わないと、そんな自暴自棄になっていた。
そして気が付いたら、その穴の前に来ていた。
私はその穴の中を覗き込む。
変わらず、穴の中の様子は分からない。
試しに足元にあった石ころを投げ入れてみる。
1秒が過ぎ、10秒が経った。
しかし何の音も返ってこなかった。
一体どれだけの深さがあるのだろう。
光が届かないこの中に入ってしまったら、
一体どうなってしまうのだろうか。
私は自暴自棄な気持ちと、得体のしれない好奇心に突き動かされ
一歩、その穴へ足を伸ばす。
そして目を閉じて重心を前に動かす。
頼りない、踏み外したような感覚に体中がざわめく。
しかし私はそれを振り払って、そのまま体を穴の中へと預けた。
瞼をきつく閉じたままで。
しばらくして、不思議に思って目を開けた。
もうだいぶ落ちたような気がする。
十秒ぐらいは目を閉じていたような。
いや、もっとだろうか。
しかしいつまで経っても底にたどり着くことはない。
いまだ底は、見えそうもない。
私は落ちながら上に振り返る。
しかしそこにも光は見えない。
もう光が届かないほど、遠くにきてしまったのだろうか。
辺りは見渡す限りの暗闇だ。
何も見えず何も聞こえない。
もう一度下を見る。
そこにも闇が広がるばかりだった。
私は急に恐ろしくなった。
もしかしたら死ぬまでこのままなのだろうか。
ずっとこのまま暗闇の中にいるのだろうか。
いやだ。
このまま、一人で生き続けるのは嫌だ。
私はそう思った。
私は声を出した。
あらん限りの声で叫んだ。
けれども声はどこにも響かず、ただ虚しく暗闇へ吸い込まれた。
私は泣いた。
涙を流した。
目から零れ落ちた涙は上へと飛んでいき、すぐに見えなくなった。
自分はなんて馬鹿なことをしたんだろう。
自分はなんて愚かなことをしたのだろうか。
私は自分の行いを後悔した。
穴なんかに、飛び込まなければ良かった。
しかし、もう戻ることはできない。
何もかもが手遅れだった。
それでも私は、手を上に伸ばしてみた。
自分の手だけは、なぜかはっきり見ることができた。
私は試しに、自分の腕を鳥のように羽ばたかせる。
バタバタ、バタバタと。
すると、少しだけ体が動いているような気がした。
私は少しでも移動しようとした。
私は子供のように、手をばたつかせて、疲れては休み、
また羽ばたかせては体を休めて。
それをなんども繰り返した。
しばらくそうしているうちに、
少し向こうに人がいるのを私は見つけた。
私は手を止め驚いた。
どうしてこんなところに人がいるんだろう。
私は手をばたつかせて向こうの人のもとへと近づいていった。
「あの」と、私は声をかける。
向こうの人は気づいていないようだ。
もう一度声をかける。
「すみません。」
すると、向こうの人はこちらに気づいたようだった。
「…。」
向こうの人も私をみて驚いたようだった。
けれど、言葉がうまくしゃべれないようだった。
もしかしたら、長い間しゃべることがなかったから、
どう口をうごかせばいいのか忘れてしまったのかもしれない。
「無理して話さなくても大丈夫ですよ。」
私は安心させようと声をかける。
向こうの人はひとまず頷いて、こちらを見た。
私は続けて向こうの人に尋ねた。
「あの、あなたも穴に落ちて来たんですか?」
向こうの人は頷いた。
「どれぐらい落ちているんですか?」
向こうの人は少し考えるようなそぶりをして、首を振った。
それもそうだ。
この穴の中では時の流れが分からなくなる。
かくいう自分も一体どれぐらいこうしているのか、
まるで見当がつかなかった。
「すみません、おかしなことを聞いてしまって。」
私が謝ると向こうの人はかまわないというふうにして首を振った。
「よかった。」と私は言った。
「あ、そうだ」
「よかったら、あなたも一緒に来ませんか?」
向こうの人は、きょとんとした顔をする。
「こうやって手を羽ばたかせると、動けるみたいなんです。」
私は自分でやって見せた。
「私はこうやってここまで来ました。」
「よかったらあなたも一緒にやってみませんか。もしかしたら、他の人にも会えるかもしれません。」
けれど向こうの人は、少し不安そうな顔をした。
「どうしたんです?」
私は尋ねた。
「...。」
向こうの人は、なんだか怯えているようにも見えた。
私はもう一度声をかけた。
「大丈夫です。私もいます。それに...。」
「良かったら一緒にいてくれませんか。」
「一人はとても寂しいですから。」
私は正直に言った。
向こうの人は何とも言えない顔をした。
そうしてしばらく考えた後、私の手をつかんでくれた。
そうして私と向こうの人は、手をバタバタと動かし始めた。
穴の底には、当分つきそうもない。
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