たぶん、ぱりぱりのやつ
気が付くと、私は前歯についた青のりになっていた。
どうしてこうなったのか、全く見当もつかない。
まさか自分が誰かの前歯に張り付く事になるとは思ってもみなかったので、はじめはただただ呆然としていた。
だが、こうなってしまったからには仕方がない。立派に青のりとしての役目を果たさなくては。
私は自分の境遇を嘆くのをやめ、前向きに考えることにした。
しかし。しかしである。
これといって私にできることは何もなかった。そもそも指一本動かすこともできない。
考えてみれば当然だ。
私はただ前歯に張り付いた青のりの破片に過ぎないのだから。
きっとこの歯の持ち主がコンビニのおにぎりでも食べたときに張り付いたのだろう。そんなものに役割が与えられているはずもなかった。
私はせめて、この前歯の持ち主が今日好意を持っている人と会わないことを祈った。いくら着飾ってみたところで、前歯に青のりがついていては恰好がつかないだろう。私は自分を哀れむよりも先に、この前歯の持ち主に同情を感じた。
私はふと、無事に食道までたどり着いた他の青のりのことを思った。彼らは無事に消化され栄養になったことだろう。エネルギーとして消化され、排泄物として体の外に出て、再び他の何かのエネルギーになる。彼らは生命の循環の中にいる。
しかし自分はどうだろう。こうやってここにとどまっている限り栄養になることもできない。生命の循環から外れた存在である。ただ口の中を通り過ぎていく他の食べ物たちを見下ろすことしかできない。何という悲劇だろうか。そしてできることといえばこの歯の持ち主の魅力をなくすことぐらいだ。本当に、一体何のために自分はこんなところにいるのだろう。
もしかしたらこれは、何かの天罰だろうか。
しかし、一体どんな罪を犯せばこんな仕打ちを受けるに値するのか、私には見当もつかなかった。
私は自分の運命を呪った。
ただ何もできずにここにとどまることしかできない自分の弱さを呪った。
私は悔しかった。
泣けることなら泣きたかった。
しかし私は青のりだった。
泣くこともできはしない。
何か、何かできることはないだろうか。幸い口の中は全くの暗闇ではなく、外の光が入っていた。きっとこの歯の持ち主は口呼吸なのだろう。
私は口の中を見渡す。そして気が付いた。
そうだ、舌だ。あの舌に気づいてもらえればきっと回収されて食道へと戻ることができる。そうすれば私も栄養になることができる。私はそう思った。
おーーい!舌さ――ん!
私は声を出した。この身の限り声なき声をふるわせて下に呼び掛けた。
おーい!おーい!ここに食べ残しが残ってるぞー!いいのかー!
しかし私がいくら呼び掛けても舌には届かないようだった。舌は眠ったようにじっとしている。
おーい!おーい!
私は呼び続けた。
するとおもむろに舌が動き始めた。
まさか、気づいてくれたのか。期待に胸が躍る。
しかし舌が向かったのは前歯の後ろ側であった。そしてそこを少し左右に行ったり来たりした後、すぐに戻ってしまった。
おい!そこじゃないぞ!食べ残しはここだ!ちゃんと働け!
私はつい怒声を舌に浴びせた。しかしそもそも舌に私の声は聞こえていないようだった。
このままここで一生過ごすのだろうか。
私はもう声を出す気力も無くなっていた。
すると突然、口の中が光に包まれた。何やら長い物体が口の中に侵入してくる。
巨大な棒状の体に針のような髪をこれでもかと生やしたそいつには、見覚えがあった。
歯ブラシだ。
私はぞっとした。このままあの針のような毛で体を引き裂かれるのだろうか。そんな死に方は嫌だ。この前歯から抜け出せるのだとしても、その代償として体をバラバラに引き裂かれるのはごめんこうむりたい。
私は神を呪った。あらん限りの罵倒と軽蔑の言葉を吐いた。おそらく今自分はこの世界でもっとも不信心な青のりだっただろう。
しかし、無情にも歯ブラシは近づいてくる。
今度は私は助けを求めた。先ほど呪ったばかりの神に救いを求めた。みっともなく助けを呼ぶ声を叫んだ。
助けてくれー!
しかしそんな抵抗もむなしく、歯ブラシはこちらに近づいてくる。
私は目をつぶった。
せめて。
せめてこの前歯の持ち主に。
幸せがありますように!
私は祈った。
目が覚めると私は自分の部屋にいた。
-何か、何かとても変な夢を見ていたような気がする。
私は目をこすり洗面所に向かった。
いつも通りに歯を磨き顔を洗い仕事に向かう。
いつもなら憂鬱で仕方ないはずだが、今日はなんだか気持ちが明かるい。
体が自由に動く。それだけのことに幸せを感じた。
おかしなことだ。
電車に乗り、会社へと向かう。
いつも通りオフィスへと入り挨拶をする。
「おはようございます。」
「あ、おはようございます。今日は早いですね。」
さわやかな挨拶が聞こえる。
私は隣の同僚を見た。
正確には彼のまぶしい笑顔を見た。
彼の歯には。
おびただしい量の青のりがついていた。